真夏の夜の夢





正確な時間は分からないが、ふと、俺は眼を開けた。
闇に包まれた部屋に、窓から月の淡い光が差し込んでいた。
(………)
深夜だろうか。
意識を浮上させると、夏の暑さの所為なのか、喉が張り付くように渇いているのが分かった。つまり、身体が無意識に水を求めて眼を醒まさせたのだろう。
額にうっすらと汗が滲んでいる。暑い。
俺は上体を起こすと、寝ていたベットからゆっくりと抜け出た。
素足で触れた床の温度さえ、生温かい。
水を求めて、俺はカーテンの端に手を掛けた。
部屋の扉はカーテンを仕切ったウルリカ側にあるので、部屋を出る為にはカーテンをすこし開いて、彼女が寝ているベットを横切る必要がある。こうして時折夜中に目が醒めて、ウルリカの横を通り過ぎる度に、意識を殺して眼を閉じて、素早く部屋を出るのは最早自分の習慣の一部になっていた。
そして大抵の場合、彼女は熟睡しているので、俺に気付くこともない。
(しかし、暑いな…)
カーテンの所為なのかどうかは分からないが、風通しが悪く、窓を開けているにも関わらず、今夜はひどく蒸し暑かった。
ふぅ、と軽く息を吐き。
そっとカーテンを引いて、自分の空間から彼女の空間へと足を踏み入れた、その時だった。

「…うぅ…ん…」

びく、と思わず心臓が跳ねた。
ウルリカに気付かれれば喚き散らされることは容易に想像できたので、極力音を立てないようにしたつもりだったのだが。
意識を殺して、とは言っても、全く意識しないことは出来ない。だから、その艶を帯びた呻き声が俺の耳に届いた時、俺は思わず、反射的に彼女が寝ているベッドへと視線を向けていた。
――そうして。
その瞬間、俺は、ウルリカを直視してしまったことを、心の底から後悔することになった。

(な……っ!)

何て格好で寝てやがるんだ、この女は。
一気に心拍数の上がった胸を抑えながら、慌てて顔を逸らす。
そうして、ひとつ、深呼吸。
(……仮にも)
仮にも。
いくらカーテンで仕切られているとはいえ、成人した男が隣で寝ているというのに、ウルリカの姿と言えば、上半身は丈の短い薄いキャミソール一枚、下半身はあろうことか下着一枚。
真夏日で暑いのは理解出来るが、それにしても、これはいくら何でも無防備過ぎる。
掛け布団をすべて蹴飛ばした状態で大の字になって寝そべっている彼女の、キャミソールは大きくめくれ上がって胸の部分が危うい感じに見えそうになっている。普段から臍を出してはいるが、それを上回る露出の多さに、俺は思わず頭を抱えた。
男の悲しい性と言うか、
闇に慣れた眼を通して見ると、月明かりの中で晒された白い素肌がうっすらと汗ばんでいる様子まで鮮明に脳に刻みついてしまい、こうして顔を逸らして眼を閉じても、その姿が瞼に灼き付いて離れない。
(くそっ…)
こいつ。
人がどれだけ普段から意識しないようにしていると思って、と、心の中で毒づいていると、またしてもウルリカが何事かを呻き始めた。
「ん……、みず…」
「水?」
思わず反応すると、彼女は眼を閉じたまま、こくりと頷いた。
水が欲しい、ということか。
ひとつ、息を吐いて。
「…分かった。汲んできてやる」
「ありがと…」
むにゃむにゃ。
ウルリカは呟いて、そうして、またすぅすぅと寝息を立て始めた。
どうせ夢現だな、と思い、心の中でまた溜息を吐く。
極力彼女の姿を見ないようにしながら、俺は部屋の扉を静かに開けた。



****



一人分の水の入ったコップを抱えて、俺は再び部屋の扉を開けた。
開ける際に一瞬躊躇したが、それでも辛うじて視線を窓の外の三日月に向けることによって、ウルリカのあられもない姿を直視することは避けられた。
「……ほら。水だ」
彼女の傍らに近寄って、視線を逸らしつつも布団をその身体に掛け直してやりながら言うと、ウルリカは眼を閉じたまま、んん、と鼻に掛かった声を出した。
「みず〜…」
ベッドに寝たまま、その華奢な腕だけがひょいひょいと宙を彷徨う。
「ちゃんと、起きて飲めよ」
「んー…」
その様子に呆れて言ったが、しかし思い直してみると、ここでウルリカにきちんと眼を醒まされて起きられたら、俺はこの部屋から閉め出される事態になるかも知れない。
すると、この半覚醒の状態に留めておくことが、最善策なのだろうか。
すこし考える。

(……何を考えてるんだ、俺は…)

とんでもないことが思い浮かんで、そうして、慌ててそれを脳内で打ち消す。
分かっている。
常のウルリカには、絶対にそんなことが出来る訳も無いし、間違ってもこちらもするつもりもない。 
  けれど、
薄く開いた彼女の桜色の唇が、
みず、と、悩ましげに潤いを求める声を出している。
(………)
ぷつん、と、頭の中で何かが切れたような気がした。
こいつのことだから、どうせ何も覚えていないだろう。
 ――だったら。

「……飲ませてやろうか?」

え?と、ウルリカが眼を閉じたままで不思議そうに声を上げる。
だがそんな彼女の様子には構わず、コップを傾けて、水を一口呷ると。 
傍らの椅子の上にコップを置き、俺はウルリカのベッドの傍らに手を付いて、上体を屈ませた。
そうして、
誘うようにうっすらと開かれている彼女の唇に、自分のそれを、覆うようにして重ねた。
「んっ…」
何度か経験した、柔らかな感触。
ぴくん、とウルリカの肩が一瞬だけ揺れて、くぐもった声が鼻から漏れる。
それに脳を揺さぶられる思いをしたが、
すこしずつ、
冷たい水を、舌で調整しながら彼女の口腔に流し込んでやる。
「…ふ…ぅん…」
悩ましげに眉根を寄せて。
こくり、と、その細い喉が、それを嚥下する。
唇を離して。
彼女の顔を見詰めると、その翡翠色の眼が、ほんの僅かに開かれた。

「ん……、ロゼ…?」

暑さで惚けているのか、とろんとした瞳の奥に、俺の顔が映る。

俺は、思わず眼を伏せた。
(…まずい)
これ以上は。
自分から仕掛けておいて何だが、その反応は、限りなくまずい。
自分で自分の首を絞めているようなものだ。
「なに…?なんか、用…?」
寝惚けている人間特有の舌足らずな声と、余韻が相まってか、ウルリカの表情が、この上なく扇情的に見える。
長くこの場に留まっていると、非常にヤバい気がする。
「…違う。お前が見てるのは幻覚だ、幻覚」
「げんかく…?…そっかぁ…」
再び、とろんとしていた眼を閉じて。
そうして、ウルリカはふ、と口元を緩めて笑みを象った。

「…なんだか、あんたの夢を見られて、よかったかも…」

(……っ!)
もの凄い破壊力と言うか。
普段間違ってもそんな台詞を吐かない人間が、(眠ってはいるのだが)にこりと微笑みながらそれを言ってのけた際の衝撃度は、ペペロンのあのごついハンマーで思い切り頭を殴られたらきっとこんな感じなのだろう、と思うくらいだった。
お蔭で別の意味で眼が醒めた。
「むにゃむにゃ……おやすみ…」 
そう呟きながら、どこか幸せそうな笑みを浮かべたまま、ウルリカの意識は再び闇の底に沈んだようだった。
それを見て、俺は軽く溜息を吐いた。
「………。本当に、お前にはいつも調子を狂わされっ放しだな…」
先刻と言い今と言い。
いつもは煩いくせに、変なところで鈍感というのか、天然というのか。

(――惚れた弱みなんだろうな、きっと)

心の中だけで、そう呟いて。
椅子に置いてあったコップの水を一気に飲み干すと、ぽん、と寝ているウルリカの額を軽く叩いて、俺は自分のベッドに引き返すことにした。
どうせ寝られやしないのだろうと、
諦めにも似た気持ちを抱きながら。
 

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