罠と恋





「ねぇ、私ってそんな色気ない?」
突然放たれた言葉に庵は飲んでいた茶を噴きかけた。



その日ライブハウスを出ると遅い時間にもかかわらず、女が一人待っていた。
薄茶色の髪に真っ赤な唇。男の視線を意識しての胸の大きく開いた服にぴっちりしたミニスカートは、庵からすれば逆に寒々しく見ていて 不快だった。
<いくら三月になったとはいえ、まだ春には早いだろうに>
よくこんな格好で冷える夜道を歩く気になれるものだ。
「庵、待ってたの」
馴れ馴れしく名を呼んでくる女の顔はたしかにライブや打ち上げで何度か見たことはあったが名前は知らなかった。
いや、覚えてないだけかもしれない。そういえばなにやら話しかけられたこともあったような気がする。
バンドもだいぶ長く活動しており名前が売れてきたせいか最近言い寄ってくる女が増え、いちいち相手をしていられない。
実は庵はだいぶもてる方なのだが、無愛想で口数が少なく、格闘技の大会に出ていることも知られているので実際彼に声をかける度胸のある女は 彼に気持ちを惹かれている中でもだいぶ少数だった。
「ねぇ、そろそろ返事ちょうだい?」
ただ無言で立つだけの庵に近づくとその胸に頬を寄せ、うっとりとしなだれかかる。
「今彼女いないんでしょ?いろいろ不便なことあるんじゃないかしら」
訝しげにその女を見下ろしていた庵はそのときやっと思い出した。
なぜ顔を覚えていたか。
他の男と付き合っているくせに、顔を合わせることがあるたびに男の目を盗んで自分に言い寄ってきていた女だ。
「今日は男と一緒じゃないのか?」
「別れてきたわ。私、あなたに本気だもの」
艶やかな笑みで庵を見上げ、その手を胸から太もものほうまで滑らせる。
「そうか…」
庵はにやりと笑うと女の腰を抱いて全身を引き寄せ、あごに手をかけて顔を寄せる。
女はキスを待つように上を向いたまま目を閉じた。
しかし、庵が唇を寄せたのは彼女が期待した場所ではなくその耳。
「うせろ」
低くつぶやき、驚いて目を見開いた女を突き放すとそのまま大股でその場を去った。
<吐き気がする>
気分直しに一杯飲んでから帰るかと、家とは別の方向へ進路をとった。



行きつけの店で一杯どころかボトルを一本開けてアパートに戻ると部屋の電気がついていた。
<来てたのか>
中に入ると案の定ちづるがいて、待ちくたびれたのかコタツで寝てしまっている。
なるべく起こさないようにと思い静かに荷物を置くと、酒臭さを消すために冷蔵庫に入れてあったペットボトルのお茶を取り出す。
すると気配に気づいたのかちづるが目を覚ました。
「八神、おかえり」
「あぁ」
もぞもぞと起き出したちづるはうらめしそうに庵を見上げた。
なにか様子がおかしい。
「…?」
「遅かったのね。飲んできたの」
「ちょっとな」
様子の変なちづるを横目で見ながらペットボトルの蓋を開けるとそのまま口をつけて一気にあおった。
「ねぇ、私ってそんな色気ない?」
<ぶっ!>
思わずお茶を噴きそうになりどうにか堪えると、慌てて口を手の甲で拭う。
「いきなりなに馬鹿なことを…」
不意打ちの質問にわけもわからず聞き返す。
しかしちづるは真剣なようだ。
じっと庵を見つめたまますねたように言った。
「今日、女の人の腰抱いてキスしたでしょ」
「してないっ」
だが心当たりはある。キスはしていないが、それと見間違われそうなことはした。まさか、あそこにいたのか。
「ふーん」
まったく信じていない返事だった。
「まぁ、別にいいんだけどね、付き合ってるわけでもないし」
そう、こんな風に自然に一緒にいても特にはっきり付き合っているというわけではなかった。
大会以来、なぜかこの古アパートの和室の部屋を気に入ったちづるがなんとなく入り浸るようになって、いつも部屋に自分が居るわけじゃ ないからなんとなく合鍵を渡した。
そしてなんとなく自然に二人でいることが増えた。
それだけだ。
だが、改めて言われるとなにか釈然としないものがある。
なぜだろう。
「まぁな…」
そんな心中などまったく表には出さず、ペットボトル片手にコタツに座りテレビをつける。こんな時間じゃろくな番組をやっていない。
「…」
それでも適当にチャンネルを回しているとちづるからの静かな視線を感じた。
「…なんだ?」
なんとも気まずい空気に耐え切れず聞く。
「私と居ても何も感じない?」
ピシッと音を立てて庵が固まる。
「同じ女としてあの態度の違いはなんか納得できないのよねー」
変なところで女のプライドを感じたらしいちづるは頬をふくらましすねたように言う。
普段の庵はかなりくつろいでいて、まるで空気のように自分を扱う。しかし、ライブハウス前でのあの女を狂わせる色気の庵も同じ男の一 面なのだ。
ちづるは一度も見たこと無かったが…。
外での自分がどんな風に見えるかなどまったく知らない庵はどう答えればいいかなどわからない。
「あーゆーこと結構してるの?」
なんとなく興味を持って尋ねたちづるの言葉に庵の中でなにかが切れた。
<俺が普段、どれだけ我慢していると…!>
「そうか、そんなに襲ってほしいか」
「え?」
庵は突然立ち上がると同じく座っていたちづるを両腕で抱き上げた。
「ちょっ」
いきなりお姫様抱っこ状態にされたちづるはわけもわからず抗議する。
「なにす…」
「望みどおりにしてやる」
寝室にあるベッドへちづるを投げ出し、その両脇に腕を付くようにして上にのしかかる。
「待った、ストップ!」
引きつった顔でちづるが言うが、庵は静かに笑うだけだ。その表情がぞっとするほど艶かしい。
そしてそのまま首筋に唇を寄せて軽くキスをするとちづるの服の下へ片手を差し入れた。
予想していた通りのさらりとした、それでいて吸い付くような弾力のある肌の感触に庵は満足する。そう、ずっとこうしたかった。
帰り際に飲んだ酒の力も手伝って、今度はこれまでなら考えられないほど大胆にそのまま手を背中に回し抱き寄せ、圧倒されて硬直してい たちづるの唇を強引に奪う。
「っん〜!!」
正気に戻ったちづるがキスをされたまま自由になる両手をばたつかせてどうにか抵抗するが、そのしぐさがますます庵に火をつけた。
庵は背中に回した手をそのまま腰のほうへとゆっくり撫でるようにして、ちづるの肌の感触を思う存分味わう。
かなり長いディープなキスから解放された途端ちづるはすかさず後ずさり叫んだ。
「待った!ごめん、無理、冗談、嘘です!!」
パニック状態に陥っているちづるは自分の服を片手で抑えながらもう一方の手をNO!とばかりに突き出した。
「…こうしてほしかったんじゃないのか」
はっきり言ってここまできたらもう止めたくない。
突き出された手を掴み自分のもとへ引き寄せようとする。が、その途端反射的に逃げようとしたちづるがバランスをくずし、枕を道連れに後ろ向きにベッド から落ちた。ごちんと鈍い音がする。
さすがに驚いた庵が手を離してベッドの下を覗き込むと、頭をもろに打ったちづるがうずくまっていた。
「おい、大丈夫か?」
「いっ…た〜い」
涙目のまま顔をあげるとすぐ近くにいる庵に気づきビクっとそこからまた数歩床の上を後ずさる。
「落ち着け、冗談だ」
本当はかなり本気が入っていたがこうなってしまってはもう続きとはいけないだろう。
あからさまにほっとしたような顔をするちづるに少しムっとするが、仕方がないかもしれない。
<もう、二度とこの部屋に来ることもないだろうな>
やってしまった、最悪だ。
もともとこの関係が永遠に続くとは思っていなかった。
しかし、こんな終わり方をするとも思っていなかった。
終わることは無いと夢を見ていたかった。
手に、そして唇に残るちづるの感触になんとも言えない想いがこみ上げる。
そんな庵の気も知らず、ちづるはその場をごまかすように真っ赤に上気した顔で矢継ぎ早に言った。
「や、やっぱりこういうことは恋人同士でするべきだと思うのよね」
恥ずかしいような照れるようなそんな気分のちづるは、それでも庵にされたことを嫌と思えなかった自分に混乱した。
ただ、激しくびっくりしたのだ。
「恋人同士ならばしてもいいということか」
「い、いやそうじゃなくて、あの…」
もう自分でも何を言っているのかわからない。
「そうだ!ほら、過程よ過程!付き合って、デートして…」
そしてすぐに言葉に詰まった。
実際男と付き合ったことの無いちづるにはこれ以上の具体的な例が出せない。
あと、なにをするんだっけ?
「わかった、じゃあそうしよう」
「え?」
文字通りうなりながら他になにをするのか考えていると思わぬ言葉が返ってきた。
「そうするってなにを?」
まったく頭の働かなくなっているちづるにはすぐには言葉の意味が飲み込めない。
「まず、付き合うことから始めるか」
「えええええええええ!」
ひとり百面相をするちづるを、ベッドに腰を掛けた庵がおかしそうに見ながら言う。
「嫌か?」
「そっ、…んなこともないけど」
なんだかはめられた気がする。
いくぶんか落ち着きを取り戻し、改めて庵の顔を見上げるとにやにやと笑っていた。
「っ!もう、ほんっとうにびっくりしたんだから!!!」
驚きが去ると次は怒りが込み上げてくる。
「八神の馬鹿っ!すけべ!」
そんな罵倒の言葉も今の庵にはどこ吹く風だった。
これからはもっと一緒に居る時間が増える。
半ば諦めていた庵は実は嬉しくて仕方なかった。
だめもとでも言ってみるものだ。
なにも知らないちづるは思いつく限りの言葉で庵を責める。
しかし肝心の当人はまったく聞いていなかった。
「で、今度は止めなくてもいいんだな?」
にやけながら言われた庵の言葉に、ちづるは手元にあった枕を思い切り投げつけた。




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