贖罪 〜終章〜
| もうすぐ決着が付く。 部下からの報告を聞いた白川は安堵のため息をついた。 『山南慶人』。彼が金に執着しろくでもない考えを持っているのは知っていた。だが自分からすれば自信過剰の小物としか見えず、奥方様 のお守り役としてなら、なかなか使えたので放っておいた。 しかし、もうそんなことは言っていられない。 ちづるからの電話を受け慌てて迎えに行くと、公衆電話の前で座り込んで気を失っているちづるとそのそばの壁に寄りかかって立っている 庵が居た。 最初は彼がちづるになにかしたのかと気色ばんだが、落ち着いて話を聞けば彼はどうやら彼女を守ってくれていたようだった。 白川は病院に看護士として数人自分の手のものをもぐりこませ、ちづるを見張っていた。もちろん彼女の体を心配してのことだ。 だが、まさかあの体で病院を抜け出すと思っていなかったその者たちはちづるの無謀な行為を止めることができなかった。 気づいたときにはちづるは病室から姿を消し、なぜ抜け出したのかまったく理由を掴めなかったためすべてが後手後手にまわってしまった のだった。 <そこまで奥方様を憎んでおられたか…> 母親を殺そうとし、逆に山南に暴行されかけたことを聞いたときは自分の愚かさに目の前が真っ暗になったものだ。 事態を甘く見すぎていた。 ちづるが実の母親を手にかけるほど思いつめていつことも、山南がそんな暴挙に出てまでちづるを追い落とそうとしていることにもまった く気づかなかったのだから。不幸中の幸いは殺されかけた母親がちづるに首を絞められた事実を否定したことだった。騒ぎを聞きつけて集 まった家人の前でここぞとばかりに現当主を辞退させるべきだと語る山南の前で意識を取り戻した彼女は、さっそく同意を求める山南に 「ちづるに首を絞められてなどいない」と答えたのだった。本当にショックで記憶が飛んでしまっているのか、わずかでも残っていた母親の 情がそう言わせたのかは知らない。 たとえどんな理由であろうと当の本人が否定してしまえば、あとは山南がどんなにわめこうと相手にされず、逆に自分の邪な考えを露呈さ せる結果となった。 また、火事になったとき、皆上がる炎のほうに気をとられだれもちづると庵の姿を見ていなかったため、火をつけたのが彼女らであるとい う主張も通らずに終わった。しかし、そちらのほうは噂を流すことには成功したらしい。いつの時代もそういうゴシップを人は好む。 その後、無事マンションへちづるを連れ帰った白川はすぐに医者の手配をするとそちらは専門家にまかせ、自分は山南を神楽家から処分す ることにした。 もともと金に汚く、のし上がるためならなんでもしてきた彼は叩けばいくらでも埃が出てくる身だ。それなりに隠してはいるものの白 川にとってはなんの問題にもならない。 すぐに山南の法に触る所業の証拠集めを始め、それは順調に進んだ。もうすぐ彼は破滅するだろう。 だがちづるはどうする? 戦いで負った怪我はもうほとんど治っている。体力もマンション内にあるスポーツジムの施設を利用しリハビリをすればすぐに戻るだろう。 <しかし、私に彼女の心の傷は治せない> 白川は頭を抱え、考え込んだ。 ちづるのことは生まれたときから知っている。神楽家に古くから仕える者としてちづる、そして姉のマキをずっと見守ってきた。 今では自分の娘のように思っており、彼女の苦しむ姿を見るたびに胸が痛む。 <彼はちづる様を救ってくれるだろうか> 昨日訪ねてきた青年、草薙京。 ただの直情馬鹿という印象しかなかった彼が必死にちづるに呼びかけ、彼女を求めてマンション内を暴れまわった時、呆れると共に、こ んなにちづるのことを想っていたのかと驚いた。 彼ならもしかしたら…。 そんな願いが彼に口を滑らせた。 自分はちづるに口止めされていて言えないが、八神庵になら行方知れずになった日の出来事を聞けるだろうと。 果たして京は彼の元を訪ね、話を聞けたのだろうか。もし聞いたとしたらどんな反応をするのだろう。 そんなことを考えていると、室内電話の呼び出し音が鳴る。 受話器をとるとマンションの管理人が怯えた声で「草薙という人がまた来ました」と言った。 昨日、「燃やすぞと脅された」と悲鳴のように報告してきたことを思い出しくすりと笑う。 『今日は白川様ご本人に用事だと言っています』 「大丈夫だ、すぐにお通ししなさい」 私に用事とはなんだろう? きっとちづるに関することに違いないと、半ば嬉しく思いながらも今度は先に緑茶を用意して京が部屋に来るのを待つのだった。 「俺が神楽の関係者で知っている人間はあんたしかいない」 京は昨日と違い落ち着いた様子で言った。 「八神から話は聞いた。いったい過去に神楽はなにがあったんだ?」 至極当然の質問だと思う。でもそれほど重い質問も無かった。 言いよどむ白川に京は焦れる。 「それも口止めされてんのか?」 「いえ…」 こんなことを聞かれる日が来るとはちづるも思っていなかったろう。 「そうですね、話すと長くなります」 白川はそう前置きし、ゆっくりと語りだした。 「ちづる様は小さい頃ずっと一人でお過ごしでした。双子といえど時期当主であるマキ様とちづる様ではまったく生活が違ったのです」 『マキ』というのか…。 京はここで初めてちづるの姉の名前を知った。 「しかし大きくなるにつれ、ふたりには不思議な力が備わっていることがわかりました。とくにちづる様の予見…未来を見通す力はとて も強いもので、それに目をつけた家のものがその力を利用して金稼ぎを始めたのです。それからは彼女も特別な扱いを受けるようになり ました」 すべてはそこから狂いだしたのではないかと白川は思っていた。 あの頃から少しづつ、なにかがおかしくなっていった。 「あいつにそんな力が…?」 「今はもう、失われてしまいましたが」 白川が続ける。 「ちづる様はあまり人と接する機会が少なかったせいか他人の心の機微に疎く、唯一最初から自分に優しかったマキ様以外の人間にはま ったく興味を示さない…どころかむしろ姉を虐げ自分を道具扱いする母親を始めとするすべてのものに反感を持っていたように思います。 特にお二人が中学へ上がったころからお母上のマキ様へのしつけはすでに折檻と言ってもいいほどになりました」 それでも当主に絶対服従の自分たちはその行為を止めることができなかった。なぜあの時たとえ逆らうことになろうともまだ子供である 二人を助けることが出来なかったのだろう。父と違い、その頃まだ若輩者である自分が口を出すことなど出来ないと思い込んでいたこと が後悔されてならない。 「それをかばい、逆に母親に手をあげられているちづる様を私も見たことがあります…」 ふたりの傷は常に耐えなかった。みながそれを当たり前と捉えてしまうほど折檻は常習となっていたのだ。 京は黙って聞いていたが怒りに歯を食いしばっているのが見て取れた。話を聞くためにどうにか殴りたいのを我慢している。そんな様子だ った。 「決定的な事件が起きたのは二人が高校2年生の夏。そのときちょうど私は仕事で地方へ行っていたので実際なにが起きたのか見てはおり ません」 いったん言葉を止めると冷めたお茶で喉を潤す。 辛い。 あの時のことは白川でさえ、思い出したくない出来事だった。 「八傑集のゲーニッツの手によってマキ様は殺され、ちづる様が重症を負いそして…」 まるで、自分が犯した罪を告白するかのように喉が渇く。たぶんこれが、ちづるとその母親の一番の確執になっているのは間違いなかった。 「そして、お母上はゲーニッツに襲われている二人を置いて、現場である屋敷から逃げたのでございます…」 「見捨てたのか…!」 「そのとき、彼女の予見の力も失われたようです」 白川が帰ったとき屋敷はひどい混乱に覆われていた。マキはすでに棺に入っておりちづるも満身創痍で意識不明の重体。 屋敷の敷地内にある二人が襲われた神社は半壊で中にはそこら中に血が飛び散り、残った大量の血痕が戦いの悲惨さを語った。 「退院してすぐにそのことを知ったちづる様は一時期とても荒れました」 最愛の姉を亡くし、もう一人の唯一の肉親である母親にも見捨てられ彼女にはもうなにも残っていなかった。 しかし、姉が死んだことによりちづるが次期当主となり、自暴自棄になって危険行為を繰り返すちづるの行く末を案じた白川の父が、自分 の息子をちづる付きの最初の人間としたのだった。 最初の頃、無免許でバイクでの暴走行為を繰り返すちづるを毎晩のように探して回った。 死にたいのだと知っていた。 予見の力も無意識のうちに自ら封印してしまったのだと白川は思っている。 『こんな力あっても、姉さんを助けられなければ意味ないじゃない!!』 病室でそう叫びながら当り散らす姿を思い出す。 「落ち着きを取り戻したのは八傑集ゲーニッツの正体を知り、オロチについて調べ、マキ様の仇撃ちを心に決めてからでした」 沈黙が降りる。 京はデスクを睨むように見つめ、なにか考えを廻らしているようだった。 「マキ様のことを含め、奥方様とお嬢様の確執はとても長く、深いものなのです」 ちづるお嬢様。最初の頃はずっとそう呼んでいた。二十歳になるとき「もうお嬢様は卒業よ」といわれてただちづる様と呼ぶようになった。 しかし、白川の中でちづるはいつまでも『お嬢様』で、守らなければいけない女の子だった。 「神楽はきっと今混乱しているんだ」 話を聞いた京が小さくつぶやく。 「と、いいますと…?」 聞き返された言葉に返事はせず、京はそのまま席を立った。 「草薙様?」 「あんた、もっと素直にならないとまた同じ後悔するはめになるぞ」 その言葉は白川の痛いところを付いたらしく、「そうですね」と悲しそうな困ったような、複雑な笑顔を作った。 「話してくれて助かった、今日はもう帰るわ」 「はい」 「神楽のこと、頼むな」 白川は本当にちづるのことを心配している、大切にしている。 話し方や表情からそれが伝わってきて、京は少しだけ彼を気に入った。 とにかく、知っておきたいことは聞けた。 ちづるの過去は重く、切なく、苦しい。 自分になにができるのだろう。無くなったものを再び取り戻すことは不可能だ。 「また来る」 一度にたくさんのことが起き、疲れた頭がよく回らない。 食事をして、シャワーを浴びて一眠りして、そしたらまたよく考えよう。 今を逃したら二度と彼女の笑顔を見ることは出来なくなってしまうだろうから。 「ねぇ、草薙。大切なものってある?」 ある日のそんなちょっとした会話。 「んー?そりゃまぁ、いろいろあるわなー」 「いいわね、きちんと守ってあげるのよ」 どういう経緯でそんな話になったのかは忘れた。 それでもそこだけ覚えているのはなにか違和感を感じたからだった。 他愛の無い雑談でなぜそんな泣きそうな顔になるのか京にはわからなかった。 思い返してみればそこここに同じような違和感があった。 それはちづるからの小さなSOSだったのかもしれない。 秋も終わりに近づいた雨の夜。 京は開け放した縁側に座り、淡く光る燈篭に照らされる静かに降る水の雫をじっと見つめていた。 彼が居るのはちづるの実家である神楽邸。 いつも数え切れないほど人のいるこの大きな屋敷に、今は彼一人だった。 他の者は白川に頼んで今日一日出て行ってもらっている。どうやら彼はかなりの権力者のようだ。 母親はかなり文句を言ったのだが、白川は御身を守るためと説き伏せたらしい。 実際その通りなのだから彼女だって従うしかないだろう。 今日ちづるがここへ来る。 再びその手で姉の仇をとるために。 白川が自分に絶対逆らわないと知っているちづるは、自分の気持ちをなにひとつ隠すことはしなかった。 彼は言わないだけで、嘘は何一つついていなかったから京の計画がバレることもなかった。 ちづるがその後の京のことについて何も聞かなかったのは正直複雑な気分だったが、一番大切なのはそこではないのだから我慢しよう。 「私にはまだ仕事が残っておりますので、すべて、草薙様にお任せします」 ちづるを陥れようと画策した首謀者の男が逃げているらしく、白川は京に彼女を託すことにした。 最初からなにひとつ起きることを止められなかった自分にちづるの心を動かすことが出来ないと思ってのことだった。 しかし、彼女が仲間と認めた京ならその言葉が届くかもしれない。 京はもちろんそんな風に期待されていることは知らなかった。 ただ、もう一度話さなければいけないと思っていたし普通にマンションを訪ねても前回のように追い返されるのがオチだ。 この時しかちづると対等に、逃げられず思いをぶつけることはできないだろう。 暗い空を仰ぎ、落ちてくる雨粒をひとつひとつ見つめ心を落ち着ける。 もともと考えたり策略を練るのは苦手だ。 考えるより、動け! もう気持ちは決まっている。 「なぜ、あなたがここにいるの」 だからそんな声が聞こえたとき、京は焦ることなく答えることが出来た。 「神楽、お前と話そうと思ってさ」 ゆっくり立ち上がり、白い霧のような雨のカーテンの中へ歩を進める。 まるでそこだけ隔離された別の世界のように感じた。 ちづるは怪我が治り、体調も元に戻るにつれ、どんどん自分の気が焦っていくのがわかった。 早く、早く決着をつけなければ。 また逃げてしまう、あの時のように。 思い出すと途端に呼吸が苦しくなる。 いっそ自分の命を断ってしまえればとどれほど思ったことか。しかし、姉の助けてくれたこの命を自ら絶つことなどあってはならない。 それならせめてこの時間を使って姉の仇をとろう。 自己満足なのはわかっている。 しかし、姉の死の上にのうのうと生きていることを許せるほど出来た人間ではないし、そうなりたいとも思わない。 理由はどんどん小さなものになり、いつか自分が復讐の渦に飲み込まれ逆に殺されるまで終わりは来ないのかもしれない。 理解などされなくていい、それほどちづるにとってマキの存在は絶対だったのだ。 自分を愛し、必要としてくれた唯一の人。 そして自分が愛し、必要とした唯一の人。 この命は彼女のためにあったのに…。 「ちづる様」 もの思いにふけっていたちづるは名を呼ばれて、ただ眺めているだけだった書類から顔を上げた。 入院している間に溜まってしまった仕事を片付け始めたものの、集中できずなかなか進まない。 「明日のことはやはり…」 「白川」 ちづるは同じく部屋で書類作業をしていた白川の言葉を途中で遮るときつくにらみつけた。 「あなたは私に従っていればいい。そうでしょう?」 何度となく繰り返された会話。 ちづるは体調が万全になり、前回果たせなかった復讐を明日、遂げるつもりでいた。 そのことは長年連れ添い、すべてを知っている白川にも自然に伝わり、そして彼から何度もやめるよう説得されそれを退けていた。 「今更逆らうことなんて許さない」 是非を言わせないその口調に、白川は悲しそうに顔を歪めた。 過去のことがある限り、自分には彼女を止める資格はないのだ。 「今日はもう休みます」 立ち上がり、背を向けちづるが部屋を出て行くのを見送ると白川は少し迷い、そして決心したようにテーブルの電話を手に取った。 ただでさえ冷える夜に静かに降る小雨。 普段なら凍えるところだが、今の京には寒いという認識は無かった。 目の前に立つ彼女に意識のすべてが集中している。 前髪を下ろし、鋭い目で自分を睨めつけるちづるはこれまでで一番神楽ちづるそのものだった。 偽っても飾ってもいない、神楽ちづるの姿。無意識のうちにその苛烈な美しさに胸が高鳴った。 「…あなたに邪魔されるとは思わなかったわ」 いくら真夜中で家の電気がひとつも付いていないとはいえ、ちづるには気配で人がいるかいないかがわかる。 こんなことを京が出来るはずがない。すぐに彼が白川と連絡を取り合っていたのだと察しがついた。 さてどうするか。これ以上ここにいても意味は無い。 ちづるは話があると言った京を無視して踵を返す。 「そんなに殺したいんだったら、俺がやるよ」 この場を去ろうとしたちづるはぴたりと足を止めた。 「たとえお前の母親だろうがなんだろうが、オロチのときみたいに俺がお前の苦痛を払ってやる」 それが京の出した答えだった。 ほかにどうすればいいのかわからない。人殺しなんてやめろと言えたらどんなにいいか。なんどもその言葉を考えた。しかしちづるの気持ちを考え た時、ふとこんな思いが浮かんだ。 ───もう一人だけ苦しませたりしない。俺も共犯になるよ─── こんなことを言えばちづるは怒るだろう。 どんな反応が返ってくるかは予想がつくが、それが一番正直な気持ちで、伝えたいことだった。 「出来もしないくせに」 振り返ったちづるは二人に降り注ぐ雨よりも冷たい視線を送ると、吐き捨てるように言った。 「白川になにを聞いたか知らないけど、軽々しく言うものじゃないわ」 「軽くない」 これまでになく真剣に京は話した。 「俺、ずっとお前に謝…」 「黙れ」 激しい拒絶。 突然自分の心の領域へ入ってきた京へ対し、ちづるは不快感を隠すことなく怒りをあらわにした。 「邪魔しないで!オロチを倒した今、もうあなたは用無しなのよ!」 違う。 用無しだなんて思ったことは無い。 なんでこんなことを言わせるの? 放っておいてくれればいつも通りに笑顔で話すことだって出来るのに。 今の私にはそんな余裕なんてない。これ以上イライラさせないで。 これ以上私の心に踏み入らないで。 「いらないことをして、迷惑だわ」 予想通りの答えのはずなのに、京はショックを受けずにはいられなかった。実際に言われるとダメージは大きい。 「んなことわかってる」 雨のせいか声が遠い。 京が一歩踏み出すと、ちづるは一歩ひいた。 「だからって知らん顔できるほど俺は出来た人間じゃない!」 「最初は私の言うことなんて無視してたくせに!」 「あの時は何も知らなかった!」 一瞬の沈黙の後、ちづるは京を鼻で笑った。 「そう…、知らなかった、確かにね。で、今は何を知ってるって?」 「戦う理由を」 即答した京を意外そうな目で見つめ、ちづるは多少落ち着いた口調になり話始めた。 「私ね、小学生の時、同級生の男の子にカッターで切られたことあるの。これも白川から聞いたかしら?」 突然の告白に驚いた様子の京を見ると、皮肉な笑いを浮かべ続けた。 「その頃うちでは商売のひとつで予見もしていて、その子の親の潰れた会社も依頼の一つに入っていた。彼はすべて私が悪いんだって、殺 してやるってカッターを持って襲ってきたわ。学校で」 真っ黒な空を見上げその時のことを思い出す。彼は今どうしているのだろうか。 「とんだ逆恨みよね。あの時私が何を言っていようとその会社は潰れてた。どうあがこうと変わらない運命。なんであんな馬鹿な真似をす るのか理解不能だった」 なぜ自分がこんなことをされるのかと腹が立ったものだ。 「でも今ならわかる!」 ちづるは京に視線を戻すと自分の胸を押さえ、吐き出すように言った。 「憎いのよ、どうしようもなく!そこに存在しているというだけで落ち着かない、私のこの苦しみなんて知らずにのうのうと生きているのが 堪らなく悔しいの!わかってるわ、あの時母が人を連れて助けに来ようと結果は変わらなかった、むしろ犠牲者は増えていたかもしれない!」 何度も何度も自分を納得させようとしたけど出来ない。それほど深い憎しみ。 「それでも!それでももしかしたら!もしかしたら姉さんは助かっていたかもしれない。その思いが捨てられない!」 もうちづるの目は京を見ては居なかった。 ずっと自分の中に溜め込んでいた思い。初めて言葉にした。 そうするとなんて陳腐なものに聞こえるのだろう。幼稚で愚かだ。 「血が繋がっているからこそ余計に、許せないのよ…」 赤の他人であれば良かった。 他人なら同級生のように二度と関わらないようにすることで、何がしかの解決をみれたかもしれない。 「神楽、俺も一緒に背負う」 泣き出しそうな叫びに京は言わずにおれなかった。 「神楽の姉貴が殺された理由は三種の神器として、封印を持っていたからだろ?この宿命がある限り俺たちは同じ場所にいる。なら、一人 だけ、お前だけがそんな苦しみを負うなんてあっちゃいけないはずだ」 「お綺麗なこと言わないで、吐き気がする」 「大切なものを守れって言ったのは、あんただろ?」 意外な台詞にちづるは驚き目を見張った。 大切なもの…。私が? 「うそよ」 そんなことありえるはずが無い。 「これまでの私の考えてきたこと、やっていたことすべてを知ってもそんなこといえる?なにも知らず、わかってもいないくせに適当なこと言 わないで!!」 「じゃああんたは俺のなにを知っているって言うんだ!」 自分の気持ちを真っ向からまがい物と否定され、京は怒鳴った。 「相変わらず偉そうに説教してるけどな、確かに俺は知らないことが多い。今回のことだって白川のおっさんに聞かなきゃずっと蚊帳の外だっ たろうさ。だからなんだ?二度も一緒に死線を潜った、一緒に戦った、それでも仲間を想ったらいけないのか?そこまでお前が俺に指示をする のか?俺は神楽、お前の憎しみは当然だろうと思うよ。自分が同じ立場だったらなんて想像すらできない。だからやめろなんて言わない。親を 殺すなんておかしいとも言わない。ただ少しでも助けたい」 話しながら京はゆっくり歩を進め、後ずさって逃げることを止めた、というよりむしろ放心状態で動くことのないちづるに近づきその冷えたきった手をとった。 「そうじゃなきゃ、俺はここにいないよ」 『私の気持ち…わかって、ちづる』 同じ言葉を聞いた気がした。 マキの死ぬ間際の言葉。 マキがちづるに教えようとしたこと。 結局あのときから今まで自分はなにも変わっていなかったのだろうか。 違う、変わろうとしなかった。 だって、変わったって仕方ないじゃないか。もう自分のことを大切に思い愛してくれる人はいなくなった。 ずっとそう思ってた。 「紅丸やキング、舞、他のみんなも大切に思ってるから病院から居なくなったお前をあんなに心配してたんだ。それまで否定するな」 ───親でさえ愛さない娘を他人が愛してくれるの…?─── 声にならない想い。 信じたい。 いや信じよう。 姉と京に似ているところなんてまるで無いはずなのに今は重なって見える。 「私、この年になってもまだただの駄々っ子だったのね…」 とられた手を握り返し、ちづるはつぶやいた。 そして困ったように笑った瞬間、パーンという乾いた音と同時にちづるがはじかれるように勢い良く後ろへのけぞった。 「神楽っ?!」 手を持っていたため、倒れるより早くそのまま背に腕を回し支えると、生暖かく水ではないなにかがぬるりと後ろに回した京の手を濡らした。 『山南が逃げました』 朝その電話をもらい、庵は外が暗くなってからぶらぶらと街を歩いていた。 『八神様を逆恨みしている可能性もあります。少しでも早くやつを捕まえるつもりですが、それまでしばらくお気をつけ下さい』 白川からのその報告は庵にとっては朗報だった。 逆恨み大いに結構。 <俺を狙って来い> わざわざ的にされやすいように時々、怪しくない程度に人の少ない通りに入りまた大通りを歩くを繰り返す。 一度会っただけだがそのとき、小物だと感じた。 庵に喧嘩を売れるほどの度胸があるほどの男ではないだろう。 それでもなにかそれだけじゃない危険性も同時にあった。 キレた人間はなにをするかわからない類のものだ。 しばらくすると小雨が降り始め、それに応じて通りからも人が減っていく。 傘を持たない庵は前髪から落ちる雫を髪と一緒にうっとおしそうに後ろに払い、それでも帰ることはせず歩き続けた。 数時間経ったころ、病院から抜け出してきたちづるを見つけた路地の近くへ来ていることに気づく。 一応、連絡を受けるように持ってきた携帯はまだ鳴らない。 <白川のところにいる神楽には手を出せず、俺のところにも来ない。灯台下暗し…か?> ちづるが今晩、実家へひとり向かうことを知らない庵はひとつしかない心当たりの神楽邸へ行くことに決めた。 <いっそ家ごと燃やしておこうか> そうすればちづるの復讐の手間も省けるかもしれない。 ふとそんなことを考えた自分がおかしくなり、軽く口の端をあげて笑う。 らしくない。 山南という男だって、放っておけばいい。雨に濡れてまで探す必要はないはずだ。 しかし、相手が狙ってくるかもしれないのをただおとなしく待つというのもまた庵にはできないことだった。 見覚えのある白い壁が道の突き当たりに外灯に照らされてぼうっと浮き出て見えたとき、たくさんのクラッカーを一度に鳴らしたような音が 庵の耳を打った。 反射的に庵は駆け出し、正面の壁に手をかけるとそのまま勢いに任せて不自然に人気の無い屋敷に飛び込む。 それは銃声だった。 「神楽っ、おいっ!」 「い、痛い。草薙、そんな揺らさないで」 左腕を撃たれた。 ちづるは無事な右腕で落ち着くよう京の肩を叩き大丈夫だからと言った。 かすったのか貫通したのかはわからない。 激しく熱く、そして痛んだ。 「お前の大丈夫は当てにならねーんだ!」 京はなにが起きたのかわからなかった。 だが、だれか第三者がちづるを傷つけたのは確かだ。 立ち上がり前へ出ようとするちづるを背中にかばい、音のした方へ構える。 「なかなかうまく当たらないもんなんだな」 だれもいないはずの屋敷の中から出てきたのは一人の男だった。 銃を二人に向けたまま、着崩したスーツ姿に狂気の目が光る。 「…山南」 隙無く構えた京の後ろでちづるがつぶやく。 「お、おい…」 止める京を押しのけ前に出るとちづるは皮肉に笑った。 「こんなに私にご執心だとは思わなかったわ。今頃、検察と白川たちに追われて暗がりで震えてるとばっかり」 「黙れ!」 「馬鹿!」 京がちづるを抱きかかえ横へ飛び、外れた弾丸はちづるの居た後ろの置石をえぐった。 「なに挑発してんだ神楽!」 「見なさい草薙、これが私たちの呪われた血」 ちづるは山南を興奮したようにかすかに笑いながら凝視し、そして山南はちづるを憎しみを込めて睨んだ。 「そうだ、呪われた血だ」 そう言いながらもう一度ちづるに狙いを定め、山南は引き金を引く指に意識を集中する。 しかし引き金を引くより早く、気づかれないよう移動していた京が飛び掛るよりなお早く、山南は第4の乱入者に後ろに閉められていた雨戸ご と吹っ飛ばされた。 蹴り足を上げたまま、失われた雨戸の奥から現れたのはやはりここにいるはずのない庵だった。 「神楽、何度も言うがこの家は広すぎる。少し減らせ」 悠々と土足で上がっていた屋内から、倒れたまま呻る山南の元へ歩くとその手元にある拳銃を蹴り飛ばし襟首を掴んで吊るし上げる。 「八神、なんでここに…」 唖然としたちづるがどうにか声を出す。 「そういわれるのも二度目だな」 京もあまりにも意外な人物の登場に固まっていた。 <なんで八神が?!もしかさっきまでの話聞かれてないよな?いやまて、それよりあの男だれなんだ?ってかなんでよりによってこんな時に!> パニック状態の京を横目で見ると、馬鹿にしたように鼻をならし、面倒そうに山南を地面へ投げつけた。 「ぐっ」 「俺の方こそこの状況の理由を聞きたいところだが?」 いつのまにか雨は止んでいた。 泥水に顔を突っ込み、体中泥だらけになった男をちづるは哀れみの目で見つめる。 「その目だ」 山南は立ち上がりながら苦々しくつぶやく。 「その目が俺は大嫌いなんだ!」 ちづるに殴りかかろうとしたが今度は京に正面から蹴り飛ばされ、植え込みにめり込む。 「この野郎、シャレにならねーことしやがって」 「草薙、その辺にしてあげて」 やぶいた自分の服の袖で傷口を縛りながらちづるは言った。 撃たれた場所は腕というよりも肩に近く出血も結構あったが、どうやら弾は掠った程度のようだ。 「さっき言ったでしょ、呪われた血って。その男、それでも一応私の血縁なの」 縛り終えると少し疲れたように縁側に行き、そこに腰を降ろす。 「山南慶人といってね。腹違いの兄なのよ」 「は?」 あからさまに驚いて聞き返す京とは対照的に、庵は静かだった。 「血縁同士で殺しあうのも宿命のひとつのような気がしてきたわ」 「知ってたの、か」 腹を押さえ咳き込みながら山南は言った。まだ植え込みからは起き上がれない。 ただの人が京の蹴りをまともに受けたら動けるはずも無かった。 「知ってるし、覚えているわ」 体が熱い、しかしじくじくとした痛みが意識を保たせてくれている。 初めて山南と会ったのはいつだったか。 ちづるはまだ小学生で、良く晴れた春の日だった。 姉妹で公園で遊んでいると自分たちを睨むひとりの少年がいた。 そのとき、彼に気づいた姉の透視の力が二人にその少年と歩く父の姿の映像を見せた。 すぐにわかった、父の愛人の子であると。 両親の仲がうまくいっていないことをよく知っていた二人は驚くでもなく、遠くから睨むだけの彼を気にするのをやめ、そのうち少年はその場か ら姿を消したのだった。 それからすぐ父も病で亡くなり、二度と会うことは無かったが記憶の片隅には残っていて、数年前に山南が母の愛人として姿を現したとき にはすぐあのときの少年であるとわかった。 父に認知されておらず、私生児として育った彼は戸籍上はまったくの赤の他人でだれも気づかなかったが、ちづるだけは知っていた。 「公園で会ったあの日から、あなたの私を見る目は変わっていなかった」 「お前の目も変わってなかった」 山南の母親はもともと水商売でちづるの父親と出会った。 玉の輿思考があったため、相手がかなりの金持ちと知るや、既成事実として慶人を作り結婚を迫ったのだが失敗しかなり荒れた。 逆にちづるの父親に財力がありすぎたため、金ですべて握りつぶされてしまったのだ。 あとはお決まりのパターンで、あてがはずれただの荷物となった慶人を母親は毎日ひどくなじった。 その代わり、立場上認知はしなかったものの息子がほしかったらしい父はたまにだがこっそり慶人に会いに来て、一時だけの気まぐれな愛情を 注いだ。 ちづるたちの存在は母親の愚痴から知った。そして姿は父が見せてくれた写真で知った。 唯一優しかった父に認められた子供。 母曰く、大きな家に住み金にも恵まれ、何の苦労も知らない娘たち。 自分に無いものを持っている二人に会わないまでも、憎しみを抱くには十分だった。 一度、会いにきた父のあとをこっそりつけ、道に迷った先の公園で仲良く遊ぶ双子の女の子を見つけたとき、言いようのない悔しさがあった。 自分は一人きりなのに。 気づけ!俺の存在に気づけ! なぜかそう思った。 その思いが通じたようにすぐに二人は慶人の方をちらりと見、一人は慌てて目をそらしもう一人はしばらく静かに視線をそらさず見つめてきた。 後者がちづるだった。 たとえ気まぐれにでも優しかった父親がいつからか来なくなり死んだと知った。 その後数年は地獄だった。 母に折檻され、なじられ続け、10代も終わりに近づいた頃、日頃の不摂生が祟りその母も亡くなったときは自由になったと喜んだものだ。 祖父母に引き取られてからは比較的穏やかな生活を送ることが出来たがすべてを忘れることなどできなかった。 いつか、父の持っていたものを手に入れる。それが生きる目標になり、神楽家を調べあげ、ちづるたちの母親の行きつけの店の店員として近づき そこから今の地位まで上ってきた。 「いつも冷めた目で俺を見るお前が嫌で嫌で仕方なかったよ」 「こんな家の何がいいのかわからなかった。今でもわからないわ」 半分血の繋がったこの冷たい女を自分のところまで引き摺り下ろしてやりたいと思うようになったのはいつからだろう。 もう忘れてしまった。 すべてを失った今、道づれに逝こうと思ったがそれも失敗して心はとても空虚だった。 愛人の息子と正妻の娘。 なんとなく事情を察した庵は口を挟むことをせず、無言のまま白川へ連絡すべく携帯を取り出した。 「それは持ってるから言えることだ」 「いいえ、もっともっといいものを知っているからよ」 姉の愛、そしてKOFを通して出会った仲間たち。 <そう、私は知っていたはずだった。姉さんを失って怖くなっていた> 「といっても、今さっき気づいたんだけどね」 そこまで言うとちづるはどうにか保っていた意識を手放した。 「え?神楽…?!」 慌てて駆け寄る京を待たずぱたりと倒れる。 治ったとはいえ病み上がりに冷たい秋雨、そして銃創と出血はさすがのちづるにもきつかった。 「調子、良くなったか?」 「もう全然いいんだけど、白川が出してくれないのよ」 「自業自得だバカ」 「う…」 三日後、ちづるは再びマンションのベッドにいた。 銃創は通報義務があるので普通の病院には入らず、白川のもとでお抱えの医者の世話になることにしたのだ。 落ち着いたころを見計らって見舞いに来た京は手土産のお菓子を部屋にあったテーブルの上に置くとベッド脇の椅子に座った。 「良かったのか?あの山南っての」 結局山南は脱税及び株不正取引などで捕まった。 銃刀法違反と殺人未遂は入っていない。撃たれた本人が公にする気は無いというので周りはそれに従うことにした。 「一応、身内だしね」 なんとなくだけど、自分と似ているような気がする。ないものねだりの駄々っ子。判決が下りて彼がまた働けるようになったら戻ってくるよう声をかけてみよう。 でもたぶん白川は反対するだろう。 撃たれたことを内密に処理することには同意したものの、山南の素性を知っていながら言わなかったことに対して怒った白川の顔を思い出 しクスリと笑う。 なんだか、あの常に冷静なじいやもここ数日でだいぶ変わったように見えるのは気のせいだろうか。 「ねぇ、草薙」 「ん?」 「私やっぱり母のことは許せないし憎いままだと思うの」 「…そうか」 未だにあの嵐の夜の出来事は脳裏に焼きついて離れない。 今更仕方なかったと納得するのはどうしたって無理だった。 「それでもあなたのおかげでひとつ、大切なことを思い出したわ」 「?」 「姉さんは自分が死んでも『お母様が無事でよかった』って、そう言う人だったってこと」 姉は許すだろう。自分を見捨てた母親を。 それをわかっていて手を出すことはもうできない。 「思い出したわ。姉さんが最後に言いたかったことを」 二度と忘れない。 また、大切な人たちが出来たから。 「ありがとうね」 そう言うちづるの微笑みは心からのもので、京も思わずつられて笑い返すほど爽やかだった。 |