『雨の日の想い出』



煙るような雨の中、彼はだれもいない細い路地にある、裏口のドアの前で蹲って泣いていた。
声も出さず膝を抱え静かに、涙だけを流していた。
やがてふと、前にだれかが立ち止まる気配を感じて顔を上げる。
「これあげる」
黄色のレインコートを着た少女が、自分に向けて差し出した手にはピンク色の紙に包まれた飴がひとつ。
「甘味って優しいの」
そしてただ呆っと見上げてくる男の前でしゃがむと無理やりその飴玉を握らせすぐ背を向ける。
「それ、このポケットにいつから入ってたかわかんないやつだけど、たぶん大丈夫」
一度だけ振り返り、言わなくてもいいアバウトな一言を付け加え、そのまま白い雨の中に消えてしまった。
男はなんとなく包み紙をはずし、イチゴ味の飴を口に含むと、少し笑った。



ロックストンにアトリエを開いてからこっち、一生懸命に仕事を請けこなして来た成果が現れ、ウルリカへの個人的な依頼が増えてきた。
「個人依頼は面倒なのも多いけど、その分報酬も弾むから悪くないわよね」
ちょうど一仕事終わり、優雅にお茶を飲みつつウルリカが満足そうに笑う。
「依頼内容にだいぶ偏りが見られるけどねぇ」
なぜか爆弾の類が多い。
「マスターに聞いたけど爆弾工房って呼ばれてるらしいわね、うち」
北街にある爆弾工房。それがウルリカのアトリエの通称だ。
「ま、内容なんてどうでもいいのよ! 要は仕事が入ってお金も入ればいいんだから」
「確かにそうだけど、おねえさんはもうひとつ爆弾娘のアトリエっていう名前もあるの知ってるかい?」
アトリエの主本人の性格と評判のアイテムをかけての二つ名だが、あまり聞こえのいい名前ではない。
「上等じゃない! 特徴あるほうが覚えやすくていいのよ」
開き直り発言にペペロンはため息をつく。
ウルリカはもうすぐ17になるというのに、女らしさというか、しとやかさというか、そういうものがいっさい無い。
もちろんそれは本人の自由ではあるが、このまま突っ走ると将来どうなってしまうのかと苦労性のペペロンは心配になるのだ。
そんなとき、すっかり聞きなれたアトリエのベルが鳴った。
「ほら、またさっそくお客が来た」
ウルリカはカップを置き、嬉しそうに扉へ向かう。
「いらっしゃいませ!」
営業スマイルと共にドアを開け、前に立っていた青年を招きいれた。
「あの、ここではどんな依頼も請けてくれるって話を聞いて」
気弱そうな黒髪の青年は、ウルリカに伺うように聞いた。
「うちのアトリエに不可能って言葉は無いわよ!」
ペペロンは座ったまま、安請け合いをする主をすっかり諦めの表情で見ている。
「じゃあ、あの……、僕の恋人になってください!」
「は?」
青年の唐突な言葉にウルリカは聞き返し、ペペロンは目を丸くした。
「えっと、それはどういう……」
引きつってしまった笑顔をそのままに、とりあえず詳細を尋ねてみる。
「明日、田舎の両親が僕の店を見に来るんですが、そのとき安心させてあげたいんです! 父も母も手紙で何度もいい人が出来たのかとか仕事だけにかまかけてずっとひとりで寂しいんじゃないのかと言うので、つい返事に結婚を約束した恋人がいると書いてしまって。 そしたら今度来るとき会わせるって話になってしまったんです」
「それで私に、その恋人の役を?」
「はい。実際僕はこの街に来てから店を成功させるのに必死で親しい女性などだれもいなくて、ほかに当てがないんです。お願いできませんか?」
ぎゅっと手をつかまれその必死な表情にウルリカは戸惑う。
(うち、錬金術のアトリエなんだけど)
何でも屋と誤解されていないだろうか。
とにかく自分に演技など無理とわかっているウルリカは断ろうと口を開いたが、その前に青年の方が悲しそうに言った。
「ダメ、ですか? やっぱり無理ですよね、僕なんかの恋人役なんて……。すみません、切羽詰ってしまって」
「まぁ、その、演技自体が……」
「両親はもう年で、次はいつこれるかわからないし少しでも心を軽くしてあげたかったんですが騙すようなこと、出来ませんよね。
それにたぶん、今の僕を見れば恋人なんて出来ないこときっとすぐにわかってしまう」
俯いた青年の目からは今にも涙が溢れそうで、ウルリカは慌てて否定した。
「そ、そんなことないわよ! 確かにちょっと弱そうで暗くて後ろ向きだけどきっとそれだけじゃないだろうし!!」
(おねえさん、フォローになってないよ)
成り行きを見守りつつも、ペペロンは心の中で突っ込む。
単純なウルリカのことだ。この後の展開は容易に想像出来た。
「じゃあやってくれますか!?」
「え?」
(やっぱり)
なんだかんだで人の良いウルリカに断ることなど出来ないのだ。
今度は希望に満ちた瞳で見つめられればそれが止めだった。
「や、ります」
あははと乾いた笑い声を発しつつ、ウルリカはもう頷くしかなかった。



「そういえば、名前聞いてなかったわね」
「ウェイン、といいます」
ウルリカに恋人役を頼みに来た無謀な客ウェインは、茶色い髪に茶色の瞳の細身の青年で特に突出した容姿ではないが、身長だけは普通より高めだ。
「じゃあ改めてよろしくウェイン。ウルリカよ」
「はい、よろしくお願いします」
仕事として請けてしまった以上詳しく話をしようとテーブルに招きお茶をだす。
給仕はペペロンの役目だ。
「それにしても明日ってえらい急ね。ろくに準備する時間もないじゃない」
責めるわけではなく、現状の厳しさを言っただけだったが、ウェインはすっかり恐縮してテーブルにこすり付けるように頭を下げた。
「ほんっとうにすみません! 来るって手紙が来てからずっと断ろうとしてたんですが、どうしても聞いてもらえなくて最終手段に」
「わかった! わかったから頭上げて」
下手に出られることに慣れていないウルリカは、どうもこの青年相手だといつもの調子が出ない。
「えーっと、それで。一応恋人なわけだし多少は融通利かせないとよね。なにかこうして欲しいって希望ある?」
当たり前の提案にも、ウェインは首を横に振った。
「いえ、そんな、恋人だということだけを念頭に、普通に接していただければ……」
「おにいさん、それはやめたほうがいいよ」
「あんたは黙ってなさい!!」
一緒にテーブルについて話を聞いていたペペロンが意見するが、ウルリカに叩かれる。
「んー。でもまぁそうねぇ。さすがにいつものまんまじゃ気分でないし演技以前の問題になりそうだから、ちょっと服装だけでも変えようかしら」
「そこら辺はおまかせします。ただ、えっと、手紙に書いた設定なんですが」
「うん」
「僕は小さいですが輸入雑貨店を営んでまして、そこの客として来た女性とお付き合いするようになったことになってます。知り合ってすぐ僕が告白をして一年になると。あと、プロポーズしようかどうしようか悩んでいる最中ということも……」
「結構細かい設定ね……」
しかもなんとなくリアリティがある。
「す、すみません」
「だから、いちいち謝らなくていいの!!」
「気持ちはわかるけどね」
またしても突っ込まずにはいられなかったペペロンを今度は無言で殴る。
「わかったわ。逆にそういう設定があるほうがやりやすいし。その両親は明日何時に着くの?」
「昼過ぎに南門外の馬車駅に迎えに行く予定です」
「オッケー。いきなりは無理だから明日早めにあなたのところに行くわ」
そして店の名前と場所を聞いてメモをする。
「父と母は数日滞在予定ですが、きちんといつまでとは決まっていません。なるべく早く帰ってもらうようにするのでよろしくお願いします」
「まかせなさい。私に出来ないことなんてないんだから!」
最初はしぶしぶだったものの、単純でノリのいいウルリカはこの短時間ですっかりやる気になっていた。
「はい、頼りにしています」
そう言って初めて笑ったウェインの笑顔を見て、「あ、すごく優しい感じでいいかも」と、情けなさそうとしか思っていなかった明日からの恋人にやっと好印象を持ったのだった。



「で、ペペロンは良かったの?」
「え?」
ウェインを見送って開口一番、ウルリカはそう聞いた。
「だってさ、恋人役だよ?」
振り向いたウルリカはいたずらっぽく笑っていて、ペペロンは苦笑した。
「うーん。おねえさんは優しいけど、優柔不断じゃないからね」
「どういうこと?」
「揺るがないってことさ」
そう言いながら、出ていた茶器を片付けるが、ウルリカは不満そうに頬を膨らませた。
「ちぇー」
どうやら答えが気に入らなかったらしい。
「おねえさん?」
「嫉妬とかないわけ?」
つまりは妬いているといった類の言葉を期待していたのだろう。
そんな彼女が本当にかわいくておかしくて、手にカップさえ持っていなければ抱きしめたいところだ。
「オイラが言わなくてもわかってると思って」
それは自分から求めた言葉のはずなのに、ウルリカは顔を赤くした。




散々悩んだあげく、結局ウルリカはいつもの格好で舞台に挑んだ。
調子に乗りやすい自分の性格は自覚しているし、仕事として受けた以上失敗は出来ない。なのですぐにボロの出そうな上辺の取り繕いは止めたのだ。


ウェインの両親は予定通りにロックストンに到着し、ウルリカに会えたことを心から喜んだ。
この人のいい夫婦を騙しているということに心が痛まないではなかったが仕事と割り切る。
ウェインをペペロンに置き換えることで恋人演技は予想以上にうまくいき、一日目を終えた。
「今日はありがとうございました。あと一日、よろしくお願いします」
両親を今日の宿へ送り届けた後、ウェインの営む雑貨屋に二人はいた。
お礼にと出された冷たい炭酸水を飲みながら、ウルリカは一日一緒にいてずっと気になっていたことを聞く。
「ねぇ。なんで牧場に帰らないの?」
ウェインの実家は山で大きな牧場を営んでいて、ことあるごとに帰ってこないかと言われていた。
「先ほどの話の通りですよ」
その度に「昔から大きな街で自分の店を持つのが夢だった」と断っていたが、どうにもウルリカは納得出来ない。
「じゃあなんであんな寂しそうな顔してたの?」
夢を語るにしては諦めと悲しみの入った表情が気になる。
ウェインは「やっぱりあなたにはわかってしまいますね」と、あっさり理由を話し始めた。
「……僕はね、二人兄弟の長男だけれど養子なんです」
十八を超えて、親に内緒でこっそり行った村の酒場で聞いた。
話した本人はベロベロに酔っていて忘れてしまったようだが、もちろんウェインは忘れることなど出来なかった。
「私は父の友人夫婦の子らしいです」
養子と知ったことを家族には話していない。話したところでどうにもならないからだ。
「その両親はどうしたの?」
「馬車の事故で亡くなったそうです」
顔も知らない生みの親。死んでいたという事実に悲しみもあったが、捨てられたわけではないということにほっとした。
「家は本当の息子である弟が継ぐべきです。だから僕は、家を出た」
それがちょうど一年ほど前。
自分が跡を継ぐと疑わずにずっと家の仕事を手伝っていたため結構な額の貯金があった。
それを元手にこの街で店を始め今に至る。
「なんでウェインじゃだめなの?」
「僕は血が繋がっていない、赤の他人だからですよ」
「でも家族じゃない」
「でも本物の家族じゃない」
「本物ってなに? 養子のなにがいけないの? 家族は他人から始まるのよ。血のつながっている夫婦なんていないわ」
ウェインの両親は彼を愛している。今日初めて会ったウルリカにもわかるほどに。
幼い頃にウルリカひとりを置いて姿を消した自分の両親を思い出し、複雑な感情を抱きながら、素直に思ったことを言った。
「家族で大切なのはね、血じゃなくて、情だと思う」
それは愛情であったり、文字通り情けであったり。
「血の繋がりは家族って事実以外、なにもくれない」
「そっ……」
自分の苦悩を否定され、そんなことはないと反発しようとしたが、その言葉の裏側にあるウルリカの想いを感じて、ウェインは口を噤んだのだった。




翌日、いつも通りペペロンに「いってらっしゃい」と送り出されて、ウルリカはウェインと合流すべく雑貨屋に向かった。
(昨日は変なこと言っちゃったなぁ)
少し後悔している。
彼の家族関係に口を出したことを。
けれど黙っていられなかったのだ。あんなに愛し心配し寂しがっている親にウェインは丁寧に、丁寧すぎるほどに接していた。
その態度がとても他人行儀で、こちらまで悲しくなってきてしまったのだ。
帰ってからその話をし、「言い過ぎたかも」というと、ペペロンは「おねえさんらしいねぇ」と笑って大丈夫だよと言った。
いつもなにをしても大丈夫だと笑う彼はあまり相談事には向かないと改めて確認出来たが、なんの解決にもならない。
チリンチリンとかわいらしく鳴る鈴のついいたドアを開け、店に入ると箒で店内を掃いていたウェインが顔を上げた。
「いらっしゃい、今日もよろしくお願いします」
昨日と変わらず嬉しそうに迎えてくれた依頼人にウルリカはほっとする。
「うん、よろしく」
謝ろうか、それとも蒸し返さずにいた方がいいだろうか。
そう考えているとウェインは手に持っていた箒を壁に立てかけ、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「昨日はありがとうございました。僕は、やっと独り立ち出来た気がします」
「え?」
不意に礼を言われ、ウルリカは戸惑う。
「昨日、あなたが言ってくれたこと、嬉しかったです。拗ねた子供だった僕の目を覚まさせてくれた」
家族は他人から始まる、血の繋がった夫婦はいない、血じゃなくて情。
すべての言葉がウェインを慰め、時間をかけてだが、心にしみ込んだ。
一晩をかけて、養子であるということが家族として生きる上で大した障害にはならないのではないかと感じさせてくれた。
「あ、あはは。そう? それならいいんだけど」
愛想笑いと冷や汗で照れ隠しをするウルリカに「そのうえで」と話を続ける。
「やはり僕はこの店を続けたいんです。家の仕事は嫌いではなかったけれど、惰性だった。きっかけはどうであれ、やっと掴んだ夢だから」
協力してもらえますか?と握手を求め差し出された手を、ウルリカは強く握り返し勢いよく振る。
「OKわかったわ! 私もプロだし、もちろん最後までつき合うわよ。あの人達を騙してるってのがちょっと気が引けるけど、きっとウェインならすぐに本当の恋人が出来るもの!」
お世辞抜きでそう言うと、ウェインは困った顔をしたが、すぐに笑顔に戻ったのでウルリカが気づくことはなかった。




心のわだかまりが解けた分、昨日よりも自然にウェインと仲の良い姿を見せることの出来たウルリカは、雲行きの怪しくなった空に帰る時間を早めた二人を一緒に馬車駅へと送ることにした。
とは言ってももう日も傾いているので厚い雲と相まって大分暗くなっている。
「ウェイン、本当にここに残るのかい?」
終始ことあるごとに帰っておいでと言っていた父親はなおも名残惜しそうにその言葉を口にし、やはり同じように「ここで最後までやりとげたいんだ」と断られていた。
「そうか。わかったよ。でもお前の部屋はずっとあのまま残してある。たまには帰っておいで」
そして愛おしそうに一度頭を撫で、馬車に乗り込む。
「ウェイン、体には気を付けるのよ」
「母さんも、元気で」
父と違い母親は息子の独り立ちにも納得したふうで、一度抱きしめただけですぐ馬車に足をかける。が、そこで一度振り向いた。
「ウルリカさん。情けない息子ですが、いつまでもお友達でいてやってくださいね」
「え?」
にっこりと言われ、大人しく親子の別れを見ていたウルリカはつい聞き返してしまった。
息子の恋人として紹介された自分に「お友達で」とはどういうことなのだろう。
その混乱した様子を見て、母は笑う。
「私は母親ですからね。息子のことは、なんでもお見通しなんです」
途端にウェインは気まずさから目をそらし、演技のばれたウルリカは顔を赤くした。
「ん? なんの話だい?」
「なんでもありませんよ。さ、行きましょう」
なかなか乗り込まない妻に奥から戻った夫を押し返して二人とも馬車に収まり御者が扉を閉めたとき、とうとう雨が降り出した。
「父さん母さん! 今度は僕が会いに行きます」
走り出した乗合馬車の小窓から顔を覗かせた両親にウェインが大声で言って見送る。
「ばれちゃってたね」
嘘の恋人とバレている相手を前にあんなことやこんなこと(といっても手を繋いだり腕を組んだりした程度だが)をしていたのだと思うと余計恥ずかしい。
赤い顔のままのウルリカに「えぇ、本当に、全部バレてたみたいですね」とウェインも疲れた顔をした。
「やっぱり、母はすごいなぁ」
感嘆とも取れるため息をついて空を見上げる。
雨が振る前には帰るつもりだったが間に合わなかった。
まぁ、もう初夏なのでこの雨も気持ちいいくらいだが、「傘くらい持ってくれば良かったですね」とウルリカを濡らすことになってしまった結果に謝る。
「涼しくてちょうどいいから気にしないで」
雨もまだ小降りで実際そう気にもならない。
他にも馬車を見送りしていた街の人達がいたが、皆ぞろぞろと帰り、二人も歩き出した。
「それにしてもいつからばれてたのかしらねー。私たちが恋人同士じゃないって」
出逢った時からだろうか。
うーんと唸っていると、ウェインが「母にばれてたのはそれだけじゃないようです」とうつむいて言った。
「それだけじゃないって?」
他にないがあるのだろう。
聞かれて足を止めたウェインに、数歩進んだウルリカも立ち止まり振り返る。
「僕がウルリカさんに初めて会った日も、一年前のちょうどこの時期で、やっぱり雨が降っていました」
ウェインの恋人役は引き受けて貰えればだれでも良かったわけではない。
相手はウルリカでなければいけなかったし、恋人の設定がやけに具体的だったのもきちんと理由がある。
「自分が養子だと知って勢いでこの街まで出てきて店を借りて。だけれど最初は仕入れはうまくいかないしお客は来ないしで散々な日が続いて、無力感でいっぱいになったんです」
ひとりじゃなにも出来ない。
結局血の繋がっていない、好意で自分を引き取ってくれた両親の善意にすがらなければ生きることさえままならないのかと、自分自身が嫌で嫌でたまらなくて、ある雨の日の夕方、店の裏口のある路地で膝を抱えて泣いた。
流した涙は降り注ぐ雨と同化してわからなくなり、雨粒の地を打つ音が多少気を紛らわせてくれる。
そうしていじけて嫌悪に陥っているとき偶然目の前を通りがかったのがウルリカだった。
「そんな僕に、通りがかったあなたは飴をくれた。覚えていますか?」
「えーっと……」
覚えていないとは言いにくくて言葉を濁すと、「いいんですよ、覚えていなくて」とウェインは苦笑する。
「本当に一瞬で、忘れてしまいそうになるくらい些細なことではあるけれど、僕には一生の思い出です」
飴を口に含んだ後、「いつのかわからないけどたぶん大丈夫」という言葉を思い出して笑ってしまったあの日。
悲しくて悲しくて仕方なかったはずなのに、たった一言で笑える自分が更におかしくなり、しまいには止まらなくなって声を上げて笑っていた。
「あの時から僕は……」
あなたの事が好きなんですと喉まで出かかったセリフを飲み込み「僕は、少し前向きになれたんです」と言い直した。
「そんな大げさな! ウェインならきっと私が余計なことしなくたってがんばれたと思う」
じっと見つめられて慌ててウルリカは両手を振り否定する。
「少なくともあの時の僕にあなたは救世主だった。そして今回もまた、僕の悩みを一つ解決してくれました。…………すみません、話し込み過ぎましたね」
小降りだった雨が本降りに変わり、ウェインはもう一度空を見上げる。すっかり暗くなってしまっていた。
「送ります。急ぎましょう」
「私、ひとりで帰る」
「え? ダメです、こんな時間に雨の中女性ひとりなんて……」
「大丈夫! 走って帰るし、私、強いんだから!」
そう言うと唖然とするウェインを置いて、濡れてまとわりつくスカートをものともせず、ウルリカは全速力で南門をくぐり抜けた。



(解決。解決かぁ……)
無理矢理ウェインと別れたあと、ウルリカは適当に街の路地を彷徨い歩いていた。
なんだか今はとても雨に打たれていたい気分で、帰りたくない。
(私、そんな良い人間じゃないのに)
ウェインの両親はとてもいい人で息子を心から愛していた。
なのによそよそしい態度の彼に腹が立ち、養子だから家族じゃないという言葉に憤ったというのが本当の気持ちだ。
そんな理由から出た言葉に礼を言われ、ウルリカはいてもたってもいられなくて彼から逃げた。
(私って、小さいな)
愛してくれる家族のいる彼が羨ましかった。
それを養子だという理由だけで拒絶する彼が妬ましかった。
私は血の繋がった両親にさえ、愛してもらえなかったのにと。
「はー……」
思わずため息が漏れる。
気づかない振りをしていた自分の心を再確認し、余計落ち込んできてしまった。
「雨って、気持ちいいー」
いっそ自分の過去も記憶も洗い流してくれればいいのにと、点滅する街灯下から空を見上げ、もう一度ため息をつく。
すると、雨の音に混じって聞き覚えのある声が耳に届いた。
「……ねえさん、おねえさん!」
「ペペロン?」
悪天候によって視界の悪い薄暗い闇の中でもわかる巨体と緑の服の自称妖精が、細い路地をかけてくる。
「やっと見つけたよぅ。ウェインさんがアトリエに報酬を持ってきてくれて、おねえさんがまだ帰ってないことに驚いて心配してたよ」
「あれ? そんなに時間経った?」
アトリエで留守番をしていたペペロンの元に報酬の入った革袋を持ったウェインがやってきて「まだ帰ってないんですか!?」と顔を青くしたときは、ペペロンも同じように青くなった。
そのあとどうにか一緒に探しにいくと言う彼を宥めて出てきたのだが、もちろんこの広い街で簡単に見つかるわけもなく、半時ほど雨の中を走り回った。
ウルリカは実質1時間近くも彷徨っていたのだ。
「ごめん、ちょっと散歩してた」
汗と雨で頭のてっぺんからつま先までぐっしょり濡れたペペロンは、同じようにぐっしょり濡れたウルリカの前にかがんで目線を合わせた。
「おねえさんてさ、嘘つくの下手だよね。自覚無いけど」
「なっ!」
馬鹿にされたと怒るウルリカをよそに「えーっと、こういうときなんて言うんだったっけ」とぶつぶつつぶやいた後おもむろに片膝をついて騎士の礼をとり、頭を下げる。
「おいら、ペペロンチーノは健やかなる時も病める時もウルリカ・ミューベリを助け、生涯変わず愛し続ける事を誓います」
前置きもなにもなく、突然告げられた愛の誓いを理解できなかったウルリカは、口をパクパクとしたあと「え?」と間抜けな声を出した。
「おいらと家族になろう、おねえさん。おいらはなにも言わず消えたりしないし勝手にどこかに行ったりしない。ずっと一緒にいるから……」
見上げた顔の半分は緑の妖精帽に隠されて見れないが、なんとなくどんな表情をしているのかはわかった。
「だから、もうこんな風に泣いたらだめだよ」
立ち上がったペペロンに抱きしめられ、やっとウルリカは自分が泣いていたことを知った。
「誓うよ、離れないって。約束する」
長い共同生活の中で両親が六歳の時に家を出ていった話は聞いていた。
置き手紙一枚を残して朝起きたら消えていた家族。
今回の仕事で触れたウェインの両親の暖かみは、過去のトラウマをより冷たく悲しいものにしてしまったようだ。
「もう、おねえさんはひとりじゃないんだ」
「うん。……うん」
無自覚に流れていた涙は止まるどころかより量を増して、もともと濡れているペペロンの胸に吸い込まれる。
「まだ、悲しいのかい?」
時々しゃくり上げる音を聞いて、ペペロンはぎゅっと抱き返してきたウルリカの背を撫でる。
「うぅん、嬉しいの」
ずっと求めていた優しさが、今包み込んでくれている。
その後もしばらく抱き合ったまま二人は雨に濡れた。


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