『名前で呼んで』



「ね、ペペロン」
錬金釜をかき混ぜながら、ウルリカは何気なく言った。

「そろそろ、私を名前で呼んでみない?」

バコッと鈍い音がして、カノーネ岩を慎重に砕いていたペペロンは、通算30個目の乳鉢を割った。



「あぁ!」
「な、なに今の音! って、あぁっ!!」
びっくりして振り返ってみると、テーブルの上で作業をしていたペペロンが真っ二つに割れた乳鉢を前に頭を抱えていた。
動揺のあまり、つい力が入ってしまったのだ。
「あんた、それ何個目だと―――」
何度目か分からないセリフを言いかけて、ウルリカはこれを利用することを思いついた。
「ご、ごめんよぅ!」
「いいわよ、許してあげる」
「え?」
いつもならここで拳骨のひとつでも飛んでくるところだ。
頭をかばうようにしていたペペロンは意外な反応に逆に嫌な予感がした。
「私の名前を、呼んでくれたらね」
<やっぱりぃぃ!!>
釜を混ぜる手を止めると、鼻歌まで歌いそうなくらい上機嫌にペペロンのそばへ来て、「ほら、呼んでみて」と促す。
しかし、今までずっと「おねえさん」で通してきたのだ。
今更名前でなんて、恥ずかしすぎて呼べない。
<慣れないし、な、なんか抵抗が……>
「呼ばないと、許してあげない」
「そ、そんなぁ……」
許してもらえないのは困る。
「あの、えっと、その」
「んー?」
なかなか呼べずにどもるペペロンの反応さえも楽しいのだろう。嬉しそうに口元に耳を寄せてくる。

「う、ウルリカ……さん」

<うわっ! これは恥ずかしすぎるかも!>
仕方なく呼んでみると、想像以上に恥ずかしい。
思わず顔が赤くなり、散々せかしてきたウルリカの反応を見ると、そちらはなぜかペペロンよりも赤くなっていた。

「よしっ! 許してあげる! じゃ、私ちょっと散歩いってくるから、あんた鍋見といて!」

「はい!?」
突然背筋を伸ばし、ペペロンの顔も見ずにそう宣言すると、うりゅも連れてさっさとアトリエを出てしまう。
「え? ちょっと、おねえさん?!」
呼べと言ったのは自分なのに、怒ったのだろうか。
わけが分からず赤くなった顔が戻らないまま、ペペロンは言われたとおり鍋をかき混ぜるために席を立った。



「うわー、うわー、あれはやばいわ!!」
「うー?」
自分で呼べと言ったにも関わらず、呼ばれたときのあの新鮮さと、まるで別人のような迫力というか、違和感というか、とにかく その声に、ウルリカは一発でやられてしまった。
そう、いつも意識して明るく少し高めの声で話しているペペロンだが、あの時は緊張と恥ずかしさのあまり、素の声でウルリカの名前を 呼んでしまったのだ。
<まだ心臓がドキドキいってるし!>
なまじ、名前を呼べと言われ、激しく動揺しているペペロンがかわいくてついつい調子に乗り、良く聞こえるように耳を寄せていたもの だから、その声をもろに聞いてしまった。

『う、ウルリカ……さん』

恥ずかしそうに呼ばれた名前は低く、まさに男の人そのものの声で、聴いた瞬間に鼓動が激しく打ったのだった。
まさに不意打ち。
戸惑い頬を染めるいつものかわいらしさと声のギャップが、ウルリカの萌え心を直撃する。
「卑怯! あれは卑怯よ!」
原因は自分なのに、悪いのはペペロンだと責任転嫁した。
<と、とにかく、もう名前を呼ばせるのはしばらくやめておこう……>
きっとまた聞きたくなるが、今またあれをやるのは心臓に悪すぎる。
「うりゅりか?」
路地を歩きながらひとりで悶えるウルリカにうりゅが不思議そうに首をかしげる。
「あ、ごめん。なんでもないのようりゅ。新しい乳鉢買いに行こう」
少し、頭を冷やしたい。
「う!」
また割られたときのために5個くらい買っておこう。

―――そして割ったらまた、なにか罰を科してやろう。

ウルリカは次の要求を考えつつ、雑貨屋へと向かったのだった。




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