おはよう
石が飛んでくる。 遠くから罵声が聞こえてくる。 飛んでくる石は多すぎて、どこに当たったのか分からない。 罵声の声は大きすぎて、何を言っているのか聞き取れない。 ただ自分が否定され、拒絶されているということだけは痛いほど理解できて、ペペロンは身体を丸めた。 (ごめんなさい。ごめんなさい) (生まれてきて、ごめんなさい) (みんなに嫌な思いをさせて、ごめんなさい) これは夢だと冷静な自分が囁くけれど、これは過去にあった現実の記憶だ。 だからそれは救いにならない。 だからこの先どうなるかも、ペペロンはよく知っている。 (この後おいらは暴れてしまう) 石が額に当たり、その血が口の中へ流れ込んで鉄の味がした瞬間、自分は理性を失ってしまった。 悲しくて寂しくて、けれど申し訳ないという気持ちは本当だったのに、暴れて物を壊して、さらに皆を怯えさせてしまった。 (ごめんなさい。ごめんなさい) (みんなは怖かっただけなのにね) ああ、どうか石を投げないでほしい。 これ以上何も言わないでほしい。 傷つけられることよりも、傷つけてしまう方が怖いから。 (どうかおいらに――おれに関わらないで……) そう願った瞬間だった。 「さっきからうるさいわよ、あんた!」 小石よりよほど威力のある蹴りが、ペペロンの額を強打した。 「……あれ?」 目覚めると、そこは師匠の家でも夢の中の街でもなかった。 空いっぱいに青空が広がり、丸まっているのは冷たい土の上ではなく、木の匂いがするウッドデッキ。その下からさやさやと、水が流れる音がしている。 「何でこんなとこで寝てるのよ、あんたは!」 そして両手を腰に当て、憤慨している少女の髪は、朝日を浴びてキラキラ輝いているのだ。 夢の光景とはまるで違う現状に、ペペロンの頭はついていけなかった。 「えっと〜……何のご用でしょう?」 訊いた瞬間、少女――ウルリカの眉が跳ね上がった。 「何の用、ですってぇ!?」 連続の蹴りが、ペペロンの頭を襲う。 「あんたがこんなとこで寝てるから、わざわざ声をかけてやったのに! 何なのその態度! 何なのその余裕! うんうんうなされて呻りまくったあげく、起してあげたわたしに言うセリフがそれ!?」 「ご、ごめんなさい! 何だかよく分からないけどごめんなさい!」 身に染み付いた条件反射が、ペペロンを謝らせる。 けれどその謝罪も、やはり夢の中のそれとは違うのだ。 ただただ自分が悪いのだと、存在を恥じ、卑屈な気持ちで謝るそれとは違う。 あえて言うなら無条件だ。 無条件に、目の前の存在には全面降伏する。 (えーっとえーっと、おいらは何をして、どうしてここにいるんだっけ!?) ペペロンは必死で考えた。 学園卒業後、ユンに護身術を習い始めたウルリカの蹴りは、ますます冴え渡り危険なものになっている。早く頭を働かせないと、別の意味で働かなくなる可能性大だ。 (確か、夢を見て……) 悪夢を思い出せば、つい口元を歪めてしまう。 けれどそれも一瞬だ。今はそれより現実を考えなければ。 (採取に……行ったんだよね、確か) ペペロンはようやく思い出してきた。 「夜の採取に行って、夜だけ採れる実とか、朝日を浴びて咲く花とかを採って帰ってきたら、扉が開かなくて……」 寝る前の記憶を順に口に出せば、ウルリカの蹴りはぴたりとやんだ。 「アトリエの扉も店の扉も、窓も鍵がかかってて、だからもういいやって、ここで寝ちゃった……みたい、です、ハイ」 「何で鍵が閉まってるのよ?」 無用心なセリフを、ウルリカは当たり前のように口にした。 「戸締りなんて、生まれてこの方したことないわよ」 「うーん、そう言われちゃうと、そっちのが間違いだった気がするなぁ」 おそらく犯人は、常識人のロゼに違いない。 もちろん彼に悪意はなかっただろう――彼にとっては当然の行為だったと思われる――から、ロゼを責めるつもりはない。むしろウルリカの感覚に慣れて、鍵を持っていかなかった自分が迂闊だ。 それでも、閉めだされたという事実と硬い寝床が、過去の悪夢を呼んだのだろう。 窓の外でうなされているペペロンに気づき、ウルリカが慌てて蹴り起してくれた、ということか。 (蹴りじゃなかったら、もっとよかったのに) しかし今はまだ早朝だ。 部屋で寝ていたはずなのに、ウルリカはペペロンのうなされる声を聞きつけて、こうして駆けつけてくれたのだ。改めて見れば、彼女は寝巻き姿のままだった。 「起しちゃってごめんね、おねえさん。来てくれてありがとう」 ようやく言うべきセリフが分かって言えば、ウルリカはぷいと横を向いた。 「うるさいから黙らせに来ただけよ」 相変わらず素直でないウルリカは、目元を赤く染めている。 ペペロンは笑って立ち上がった。 軽く肩を回す。 一晩くらい外で寝たところで、身体を痛めるほど柔ではないが、悪夢のおかげでどうにも睡眠が足りていない。いつもより身体が重く感じられる。 それでも、気分はそう悪いものではなかった。 「……イヤな夢、見たの?」 気遣うようなウルリカの言葉にも、一瞬首を傾げてしまったくらいだ。 「うん。でも、大丈夫だよ」 嘘ではなかった。 過去の夢はいつだってペペロンの胸を抉り、耐え難い痛みを与え続ける。けれどそれも、ウルリカがいれば話は別だ。 光を鏤めたような髪に、生気に溢れた翡翠の瞳。 突拍子もない行動含め、彼女は太陽のような少女だった。 たまにテンションが上がり過ぎて熱量が痛かったり、少しは遠慮して下さいとお願いしたい心境になったりもするけれど…… 「おねえさんが起してくれたから、もう大丈夫だよ」 どんなに深い悪夢だって、太陽が昇れば覚めて消え去るのだから。 首を傾げたウルリカは、無言でアトリエに引き返していった。 ついて行こうと思ったが、何かを持ってすぐに引き返してくる。 毛布だ。 「まだ早いし、あんたもうちょっとここで寝てなさい」 「え? でも、おいら別に――」 「いいから。顔色悪いわよ」 「そうかい?」 「んー……たぶん?」 本当に大丈夫だったのだが、ここはウルリカの優しさを受けておくことにする。 「ありがとう、おねえさん。おねえさんはやっぱり、おいらを愛しているんだね! おねえさんの愛、おいらは受け取っ――」 「じゃ、おやすみ」 毛布を受け取った次の瞬間、ぴしゃりと窓を閉められた。 ご丁寧に鍵をかけて――ウルリカの言葉通りなら人生初だ――、自分は欠伸しながらとっとと二階へ上がっていく。しかもちゃっかりペペロンが採取してきた草花達は、中に持ち運ばれていた。 「……愛は、どこ?」 ペペロンは思わず呟いてしまった。 二階に上がれば、ペペロンにだって暖かい寝床があるわけで。 毛布をくれるくらいなら、中に入れてくるほうが明らかな優しさだった。これも愛か? 愛なのですか!? (おねえさんの考えることは、おいらにはまったく分かりません……) ペペロンはうな垂れて、それでも大人しくその場で毛布に包まった。 春のまだ冷たい風が、ペペロンの頬を叩いて通り抜けていく。 木々の間から顔を出した太陽は、川に光を反射させて狙うという高等技術を駆使し、ペペロンの目元を狙ってきた。 寒くて眩しい。 (寝れないよ、おねえさん!) しくしく涙するペペロンの耳に、遠くから声が聴こえてきた。 それは夢の中の罵声とは違う、柔らかで暖かな、小さな旋律―― (子守唄……?) 澄んだ歌声が、風に乗ってささやかに届いてくる。 (おねえさんが唄ってる?) 誰のために? いつもならうりゅだ。そうに決まっている。 でも、もしかしたら今だけは―― (……おいらのため?) ペペロンは膝を抱き、顔をうずめた。 親からも拒絶されたペペロンは、子守唄など唄ってもらったことがない。 気のせいかもしれない。うりゅのために唄っているのかもしれない。 けれど、ウルリカだから。 乱暴で理不尽で、けれど決してペペロンを見捨てない、そんなあの少女だから―― きっと、ペペロンのために唄ってくれているのだと思った。 (ありがとう、おねえさん……!) 勿体無くてとても寝ていられない。 視界を閉じ、ペペロンは聴覚だけを研ぎ澄まして、その旋律を追い続けた。 そして、いつもの朝がやってくる。 ユンとコロナが起き出して、二階から一階へ降りてくる。 二人は窓の外にいるペペロンを見、すぐに顔を逸らして見なかったことにした。けれどその後に暖めたミルクは、ペペロンを含めた人数分だ。 ゴトーが降りてくる。 彼はしきりと前髪付近を気にしていて、外にいるペペロンにまったく気づかない。そのうちアトリエ内を見回して、ペペロンの名を呼びながら二階へ上がっていった。 朝に弱いロゼは、しっかりとした足取りで現れた。 着こなした服も隙がなく、ネクタイまできっちりとめられている。本人は毅然とした目覚めを装っているつもりなのだろうが、あのネクタイは朝食後、そそっと外される運命にある。習慣で動いているだけで、実は頭は働いていない。 そして、最後にウルリカとうりゅが顔を出した。 「ペペローン!」 「ぺぺろー!」 二階の物干し台から身を乗り出して、二人は下のウッドデッキにいるペペロンの名を呼んだ。 立ち上がって見上げる。 と、頭上から、たくさんの花が降ってきた。 ペペロンが採取してきた草花の一部だ。 それらがくるくる楽しげに戯れながら、顔に、額に、腕に、足に、かつて石を投げられた全身に落ちてくる。 白い花だけを選んで撒き散らした少女と幼いマナは、太陽のように微笑んだ。 「おはよう!」 「おはよ!」 ――それは目覚めの仕切りなおし。 最悪から始まる朝ではなくて、暖かくて優しい目覚めをペペロンのために。 ペペロンは笑った。 どんな悪夢も悲しい過去も、太陽には敵わない。 「おはよう、みんな!」 きっと今日も、幸せな一日になる。 |