贖罪 〜生きる価値〜



場面1
「もう秋か…」
街路樹の木の葉舞う季節。
私服姿でポケットに手を突っ込み歩く京の足元がカサっと鳴る。
夕日の黄色い日差しも影響してただでさえアンニュイな気分がさらに悪化した。
「ふぅ…」
通りがかった公園のベンチに腰を降ろし溜め息をつく。
「秋って、せつないよな…」
ポエマーの京は誰も聞いてないからこそ言える、くさくて、何の脈絡も無い台詞をポツリと言った。
土曜の午後4時。中途半端な時間なせいか、街中の並木通りは人もまばらだ。
公園から秋の紅葉真っ盛りの並木を眺め、京はただただボーっとしていた。

KOFが終わった日からから1月以上が経っていた。
入院した翌日の夕方に京は退院し、一時は命の危険が危ぶまれたちづるもその1週間後には目を覚ました。……と聞く。
だが、今日になっても部屋の前には面会謝絶の札。いまだに会えずにいた。
こっそり忍び込もうかとも何度も思ったが、いざとなると彼女に対してどう接すればいいのかわからなくなり結局二の足を踏んでしまう。
謝絶の札は逆に自分に対するいい言い訳になっているのかもしれない。
<でもやっぱ、一度きちんと謝ったほうがいいよな>
これまで散々ちづるのいうことを馬鹿にして笑ってきた。
彼女にとっては命をかけるほど真剣なことだったのに。
<あ〜〜〜、思い出したくねーーー!!>
過去の自分を振り返り悶える。
思わず頭を抱えた京に突然声がかかった。
「草薙さん、こんなところにいたんですか!」
「んあ?」
顔を上げると息せき切った真吾がこの涼しい中、汗をかいて立っていた。
「めっちゃ探しましたよ!」
「どうかしたのか」
真吾が大げさに騒ぐのはよくあることだ。京はやる気なさそうにとりあえず聞くだけ聞いてみた。
「神楽さんが病室から消えたんっす!今行方不明なんですよ!!」
「はぁ?!」
京は思わず立ち上がり、もっと詳しい話を聞かせろと真吾に詰め寄った。


場面2
ちづるはただ、病室の窓から外を眺めていた。
意識を取り戻し目を覚ましてからちづるがまずしたことは、医者に面会謝絶を願い出ることだった。
この状態でだれかに見舞いにこられても応対に困るし、話すのは疲れるのでつらいといえば、すぐにそうしてくれた。
実際言ったことに嘘はないし、何より今は、いや、もうだれとも会いたくなかった。
なにもかもが億劫で、生きる気力もなしに窓から外を眺めるだけの毎日は、逆に安静が必要なちづるの体の傷を順調に癒していった。
決勝戦へ挑むとき、そこで宿命も自分の命も終わらせるつもりだった。
楽になりたかったのだ、なにもかもから解放されて。もちろん、京、庵の二人を道連れにする気は無かったし、その点無謀な行動を とるような馬鹿な真似をしようとも思っていなかったので、どうなるかはわからなかったが。
最後に結界が間に合わず二人をかばったとき、これが自分の死に様かと思った。
悪くない。
この二人を助けられるなら、こんな死に方も悪くない。
あの一瞬、これまでに感じたことのない満足感に包まれた。
でも今は…。
なぜ生き残ってしまったのか。現実には今も幸せなど存在しないのに。
そんな生きたまま死んでいるような日々を送っていたある日、担当医と看護士しか入れないはずの病室に一人のスーツの男が訪れた。
母親に取り入り20台後半で神楽家の幹部の一人になったその男の手にはひとつの紙袋が提げられている。
「ちづる様、お加減はいかがですか?」
「山南…」
めったに口を開く機会の無いちづるの声はすっかり掠れてまるで老人のようになっていた。
「奥方様が今すぐにでも戻り、屋敷の結界を強化するようにと言われております」
母親の世話係兼愛人の男は、社交辞令で加減を聞いただけで、ちづるの怪我の具合など実際はまったく気にもとめていなかった。
ちづるも最初からそれをわかっていたので答えることはしない。
「…そう」
「お送りいたしましょうか?」
常人ならとても動いてなにか出来る程度の傷ではないのはその姿を見ればだれにでもわかることだった。だが男にとって優先されるべき は主の言葉。
「いえ。どちらにしろ今の体の状態では満足な術を使うことができません。もうしばらく待っていただけるように言っておいて」
カラカラの喉がひきつる。
「では、そのようにお伝えいたします。たぶんまた近くにこちらへお邪魔することになるとは思いますが」
「えぇ、でしょうね…」
「とりあえず、着替えをお持ちしましたのでこれは置いて行きます。お大事に」
男はそれ以上言い募ることはせず、静かに部屋を後にした。
再びひとり病室に残されたちづるはベッド脇の水差しを手に取り、こくりと一口飲むと軽く喉を潤す。その目には大会が終わってからず っと失っていた光が戻っていた。
「そうだ、私にはまだ仕事が残っていたんだわ」

───あの女を殺さなければ───

ずっと寝たきりだったため、すっかり固まり、引きつる体を無理やり起こすと男の残した紙袋に手を伸ばした。





場面3
その日珍しく庵は酒を飲んだ帰りだった。
怪我のせいで休んでいたバンド活動を再開した祝いに仲間と打ち上げをしていたのだ。
ただ、血筋か、単に庵の特性なのか酒で酔うということは一度もなかった。
時間もだいぶ遅くなり、大人向けのネオンの光る道を一人静かに歩く。
騒がしい場所なのに、庵の体全体から放たれるただならぬ雰囲気のために声をかけるポン引きは一人もいない。
と、そこで、気になる声が聞こえてきた。
「ちょっと、そこ通してもらえないかしら」
多少掠れてはいるが、これはとてもよく知った声だ。
「おねーさん具合悪そうだから介抱してあげるって言ってるだけじゃん」
「そうそう、人の親切は素直に受け取ったほうがいいよ〜?」
建物の隙間の暗がりで男二人に挟まれているため、女の顔は見えないが、それは確かにちづるの声だった。
現在入院中のちづるがどうしてここにいるのか。
「手加減する余裕ないのよね…」
「大丈夫、俺たち本気で相手しちゃうよ!」
なにを勘違いしたのか、ちづるに絡んでいた男の片方が腰に手を伸ばし抱き寄せようとする。
「うざい」
一言吐き捨てたちづるは男の腕をひねり上げ、そのまま頭から地面に投げ倒す。下がアスファルトなのにまったく容赦がなかった。
<…ほう>
男を叩きつけ、顔を上げたその一瞬のすさんだ眼光とこれまでにない大胆な行動に庵は知らずのうちに感心する。
「てっめ、このアマぁ!!」
一瞬の出来事に気をとられたもう一人も、すぐにちづるに襲いかかるがあっさりかわされて、前につんのめって無防備にさらした背中を 容赦なく肘で打たれそのまま昏倒した。
「いっ…つ…」
ちづるは顔をしかめて少しよろけたが、すぐに倒れてうなる二人を踏みつけ、蹴り上げ、鳩尾に踵を沈めて止めをさし、そのまま男たち を省みることなく、ふらつきながら路地のさらに奥へと消えていった。
庵は入院した日の夜に見たちづるの姿を思い出す。
あのときの生気の無い姿から、今見たちづるはまったく想像できない。
いったい何があったのか。
なんだかんだで、やっぱり酒が影響していたのかもしれない。
いつもならありえないが、庵はちづるの行動に興味を覚え、道に倒れている男を踏みつけるとそのまま彼女の後を追った。


狭い路地を抜けると途端に人気が無くなり、ネオンの明かりも届かない暗い裏道に出た。
怪我のせいだろう、足取りの重いちづるはそれほど進んではいず、すぐに後姿を見つけることができた。
時折近くの建物に手を付きながらも一心不乱に進む。その鬼気迫る姿に庵は違和感を覚えた。
さっきのちづるははっきりいって、大会前とは別人のようだった。いつものすました態度と丁寧な口調が一切消え、ギラギラとした殺気が 放たれている。八傑集を倒し、オロチも封印した今、彼女はなにをこんな必死になっているのか。
実際あの後、意識を取り戻したちづるがどうなっているのかと思いもしたが、どうしても知りたいというほどのことでもなかったので 放置していた。
たぶん、生きた死人と化しているだろうと容易に想像できたからだ。
しかし、今の彼女はとても生きる気力を失った廃人には見えなかった。
跡をつけるというのは自分らしくないと思いながらも、声をかけたりなどして自分の存在に気づいたらきっとちづるは今しようとしている なにかを実行することをやめてしまうだろう。
自分で自分に言い訳をしつつ追跡をやめないでいるのは、心のどこかで彼女が以前言った言葉の真意を掴めると期待しているからかもしれ ない。
───私は、人を殺すことが出来る───
ずっとひっかっかっていた言葉。
いつもなら鼻で笑っているところだが、あの時声に含まれた真剣さに反応することができなかった。
そして数十分も歩いたろうか。
あるT字路に出ると、ちづるは突き当たった壁の前で足を止めた。
その白塗りの壁はかなり大きな家の敷地を囲んでいて高さは2mあるかないか。
庵はまだ一度も見たことがなかったが、それこそがちづるの実家、神楽本家の建物だった。



<さすがに、ちょっと、きつかったわね>
紙袋に入っていたのは実家に残してきた昔の服だった。
それに着替えて病院を抜け出し、昔、やんちゃしていた時代にとった杵柄で近くのゲームセンターに屯っていた肩がぶつかるだけで喧嘩を売ってくるような それを使って最寄の駅まで電車で移動し、あまり姿が目立たない夜中を待ってから歩き出したのだが、やはり回復しきっていない体に 長距離移動は無理だったようだ。
この体で目的を達成できるのだろうか。
ちづるは少し不安になった。
だが、たとえ回復するまで待とうとしてもその前に家の人間に強制的にここへ連れてこられることになる。母は常に外敵に怯え、自分の 身を護る結界を作るちづるを欲し、傍に置きたがっているのだから。
家を出て一人暮らしをしても定期的に使いの人間が来て、戻らなくてはいけない生活を続けてきた。
もう、それも終わりだ。目的を達成した今彼女の利用価値も消えた。
重症で入院中をいう監視の緩いこのチャンスを逃すわけにはいかない。
ちづるは軽くジャンプすると壁に手をかけた。
「うっ、ぐぅ…」
腕にも背中にも激痛が走る。
それでもどうにか体を引き上げ塀を乗り越える。
そこは裏庭で、大きな池のある和風庭園が広がっていた。
この家には自分のかけた結界が悪意ある侵入者を拒むようになっている。今のちづるも悪意ある侵入者の一人だが、もちろん術者本人に 効果は無い。
時間も12時をとっくに回り、ほとんどの人間が眠りについている。
ちづるの目指す部屋の明かりも消えていた。
純和風の作りの家は平屋建てでいくつもの廊下が部屋を繋げている。各建物の入り口は木戸でしっかり閉じられていたが一応当主の立 場であるちづるに開けられない鍵は無かったし、単純なスライド式のものも力を使えば造作もなかった。
静かに気配を消して渡り廊下を進み、部屋を仕切っている障子を音も立てずに開くと、中心で寝ている人物に近づいた。
もともとの臆病な性質のせいか、布団のそばまで行くと、女はぱちりと目を覚ました。
「ちづる…?」
すぐに娘に気づいた母親は一瞬警戒したものの安堵のため息を漏らし、そしていきなりちづるの頬を打ってこう言った。
「いつまで待たせるの!あなたの役目はなによりも私を護ることでしょ?!」
瀕死の重傷を負った一人娘の見舞いに一度も来ることをせず、その娘の顔を見た途端平手打ち。
ちづるは思わず笑った。
「なにがおかしいんです」
「さすが、自分の娘を見殺しにした母親よね」
姉の存在がばれたのがこの女の心の弱さならまた、オロチ八傑集のひとりの襲撃に合い、自分たちが戦っているときそれに気づきながら も助けることはせず、家のものに自分の身を優先させ逃げ出したのもこの女の弱さとおろかさだった。
あとになってこの話を聞いたときのちづるの絶望は、姉を失った時と同じくらい深く衝撃的なものだった。
そしてそのときまで心の奥底ではこんな女でも母親だと思っていたことに気づき、自然に涙があふれた。
「なにを馬鹿なことを言って…」
「もう、十分生きたじゃない。そろそろ死んじゃって?」
首にかかった氷のように冷たい手に女は息を飲んだ。
「ひっ」
ちづるは笑いながらその手に力をこめて絞める。
女の暴れる腕に手ををひっかかれ、顔を叩かれ、傷口を殴られてもその力は決して緩まなかった。
「ちづる様、そこまでです」
突如ふすまが開かれ男が現れる。
山南は二人に駆け寄るとちづるの腕を掴んで母親の首からはがした。
今のちづるに大人の男の力に逆らうほどの体力は無い。
意識を失い倒れた母親を、ちづるは冷たく見下ろした。命を奪うまではいかなかったことを心底残念に思う。
この展開を多少は予想していた。
それでも今やるしかなかった。
「お母上に手をかけるとは…。これはどうなってもしかたの無い状況ですよね?」
ちづるの首筋に生暖かい息がかかる。
「まさかこんな早く来るとは思っていませんでしたが、さすが鍛えた体は違う」
ちづるの体を這うようにねっとりした視線が注がれる。
これまで、神楽の家は大きな財産を持つために、それに伴うトラブルも耐えなかった。
とくにちづるへ当主交代してからは、もともと財閥へ発展させるに至った護る者の役目を果たそうとする彼女の派閥と、本来の目的を 忘れ、前当主の母を傀儡に金儲けに執着するものたちとの争いが余計激化したのだ。
それでも、母は過去に一度オロチ八傑集の一人に襲われておりそれ以来すっかりオロチに対して怯えていたので、ちづるが母親に「お母 様を苦しみから介抱して差し上げたいのです」と囁き、母親方からも金と人員を引き出すことでKOFを開催しオロチを封印することが できた。
そして、KOFも終わり、オロチも封印した今、姉を死に至らしめた母は用が無いどころか、むしろ一秒だろうと長く生きている事実を 許せないこの世で一番憎い存在に変わることとなり、逆に相手からもちづるは堅苦しく前当主と違ってまったく自由にならない邪魔なだ けの人間になったのだ。
そして山南はいつからか母の愛人の座に収まり、その頭脳と体で組織の中枢までのし上がってきた人物だった。
もともと神楽家は女の力のほうが強く、細身で顔立ちがいい上に物腰の柔らかい山南は楽に女たちに取り入ることができ、特にちづるの母 親はもともと自尊心が強かったために自分に優しくちやほやしてくれる彼をとても気に入って、常にそばに置いていた。
ちづるはそんな山南を激しく嫌悪していて、それをまったく隠していなかったからちづるをきちんと当主と認めていたものたちは彼を 女に取り付く汚い寄生虫だと影で囁いた。
しかし未だちづるよりも前当主につく者の方が多く、山南は十分に自分の力を発揮し、裏から母を支配してきたのだった。
「うっ!」
ちづるは突然たたみに乱暴に叩きつけられ、うめき声をあげる。
そしてすでに傷が開き、自由に動くことの出来ない彼女の上に山南がのしかかり乱暴に服をやぶった。
一瞬痛みに声を上げたもののそれだけで、ちづるは静かに男を見上げる。
感情の無い冷めた瞳で。
「その目だ!!!」
大きな音を立ててちづるの頬が叩かれる。
それでももう、ちづるは声をあげなかった。
「その目がずっと俺を蔑んできた!」
もう一度頬を叩くとちづるを睨んだまま男は言った。
「お前たち、出て来い」
さっき山南が現れたふすまの奥の部屋から、5人の男が出てくる。
「ゴキブリは1匹見たら30匹いると思えってね」
ちづるが冷笑する。
「そんな軽口たたいてられるのも今だけだ」
人を呼び、冷静さを取り戻したらしく山南は幾分いつもの静かな口調になった。
「全員、ちづるさまが何をされたかきちんと見たな?」
取り巻きらしい男の一人が「はい」と答える。
「すぐに来てくれて助かりましたよ。これから一月は張り込みを覚悟してましたから」
よくやるもんだと半ばあきれたが、ちづるは口を開かずおとなしくしていた。
もう、どうでもいい。
「これで、あなたも終わりだ」
山南が、組み敷いたちづるの胸元に顔をうずめようとする。
「終わるのは貴様だ」
うしろからぬっと現れた大きな手がその山南の首をわし掴みにし、そのまま宙に体を吊り上げた。
「うぐっ…」
まったく気配に気づかなかったその場にいた全員が、突然の出来事にもがく男を唖然と見ることしかできない。
「神楽、この家は部屋が多すぎだ。少し焼いて減らしてやろう」
「八神…?!」
あまりにも意外な人物の登場にちづるも同じく唖然としていた。
ネオン街から後をつけたものの、屋敷の敷地に入った時点ですでに家の中に入ってしまっていたちづるの姿を見失ってしまったのだ。
ちなみに進入する際、まったく悪意のなかった庵に結界は反応しなかった。
「ずいぶんな格好だな」
なんでここにいるのかとか、どうやってきたのかとか、それよりもなんで自分の家をしっているんだとか、どこから突っ込むか頭を ぐるぐるさせていたちづるは、庵の言葉にあわてて肌のあらわになった前をかき合わせた。
「とりあえず…」
庵は極悪な表情に戻ると男を掴んだ手に力をこめた。
「お前は死んでおけ」
「八神っ!!」
責めるようにちづるが名前を叫んだ。
「それは、私がやることよ。あなたじゃないわ」
しばらく睨むようにちづると視線を合わせたものの、庵は舌打ちすると山南を周りを取り囲む男たちに向けて投げ捨てる。
「う…ぐっ、げほっ」
激しくむせる山南の横で、男の一人が庵に向けて銃を構えた。
庵はそれを見下ろし、「馬鹿が」と小さくはき捨てると男の持つ銃を睨みつける。すると、
「え…?あ、熱っ!!」
突然銃が高熱になり、そして轟音を立てて暴発した。
「ぎゃああああああああ」
指を吹っ飛ばされた男が悲鳴を上げてうずくまる。
血と破片が周りに飛び散ったが、それを見て逆にほかの男たちは殺気立ち身構えた。
だが、多少格闘技をかじっていようと、庵にかなうはずも無い。山南はすぐに状況判断をし、退けと命令しようとしたがのどが潰れて とっさに声が出なかった。
向かってくる男共に庵は容赦なく技をを叩き込み、力まかせに殴り飛ばす。今のちづるに止めるすべはなく、ただ見ていることしかできな かった。
しかし、銃の暴発音をきっかけに騒ぎに気づいた家人が起き出し、家のざわめきが大きくなる。
「潮時か」
庵が床の畳に手を付くと、その部分から炎が勢いよく噴き出し、燃え広がった。
「ちょ、やが…」
「行くぞ」
倒れたまま制止しようと声をあげたちづるを問答無用で担ぎあげると、燃え上がる火を背に外へ飛び出す。
ようやく、声が出るようになったらしい山南の怒鳴り声が後ろから追ってきた。
「お前らは火を消せ!奥様もすぐ安全なところへお連れするんだ!!!」

無事鎮火し、山南がちづるたちを捕まえるよう命令するころには、二人ははるか遠くへ消えていた。





「あそこに倒れてた女は、お前の母親か」
「そうよ」
血で汚れたちづるの姿を隠すため、自分のジャケットを彼女に着せると途中でタクシーを拾い、庵はひとまず自分の部屋へ戻った。
「お前がやったのか」
「殺りそこねたけどね」
ちづるは渡された包帯を受け取り、自分で新しく体に巻きつける。
どうやら庵が自分の手の治療用に持っていたものらしい。
一応ちづるに気を使っているのか、後ろを向いたまま聞いてくる庵にちづるは作業をしながら淡々と答えた。
「あの男はなんだ」
たぶん、山南のことだろう。
「山南慶人、母の愛人」
自分で見ることはできないが、開いたらしい背中の傷からずきんずきんと鈍い痛みが広がる。
触ってみると、やけど跡特有のつるつるとした皮膚の一部がぱっくり裂けているのがわかった。少し触れるだけでも激痛の走るその部分に も丁寧に包帯を巻く。
「それで八神、あなたはなんであそこにいたの」
「駅前でチンピラ二人をのしてるお前を見た」
そこで言葉を止めてしまう。
まぁ、つまりそこからあとをつけてみたということなのだろう。
「ふぅ…、終わったわ。助かった、ありがとう」
ちづるはほかに着るものもないので血の滲んだシャツにもう一度首を通した。
「お世話になってばかりで悪いけど、なにかこの上に羽織るもの、貸してもらえないかしら」
さすがにこの姿では街を歩けない。
無言で投げられたウィンドブレーカーらしきものは、予想通りかなり大きかったが無いよりはマシだ。
「いくらあいつらでも八神に手を出すことはできないだろうから大丈夫だと思うけど」
「来ればやるだけだ」
真顔でいう庵をちらりと見てちづるはため息をついた。
「ま、心配するだけ無駄か」
腕を突いてどうにか立ち上がると、そのままドアへ向かう。
「どこへ行く」
ちづるはその質問には答えずぶかぶかの上着をちょっとつまみあげ苦笑した。
「本当、助かったわ。これも返せたら返すから」
じゃあね、と部屋を出て行くちづるを庵はそのまま見送った。
止めても無駄なことはわかっていた。
そして、あの場面ではちづるの顔を立ててやめておいたが…。
───俺を追って来い、今度は殺してやる───
人の気配を感じて部屋に着いたとき、ボロボロのちづるにのしかかっていたあの男の顔を思い出すと、庵はわけのわからない怒りに駆ら れるのだった。




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