半神
半神



「初めまして。・・・何をそんなに怯えているのです?」
 女はただ震えていた。
 なぜこんなことに。なぜよりにもよって私のときに。
 そんな言葉が頭の中を回る。
「私があなたにお聞きしたいことはひとつだけです。恐れることはありません。素直に答えていただければ、すぐ に済むことですから」
 それは答えなければただではすまないという脅しだった。
 助けを求めようにも誰もいない。何も無い。家も木も草も、地面さえも。闇の空間にあるのは目の前に立つ冷 たい笑みを浮かべた男と自分だけ。
 本当に、存在、するなんて。
 敵の結界に足を踏み入れてしまうという愚を犯した自分の緩みきった心を攻めたのも最初だけだった。今では <仕様が無いではないか、自分のせいではない。母も祖母も何事もなく安穏と暮らしてきた。なんて運が悪いん だろう。ついてない。なぜ自分だけがこんな目に>
「封印はどこにあるのでしょう。あなたなら知っているはずです」
「知りません」
 女にも秘密を漏らさないだけの分別はある。
 どんなに愚かな心を持っていても、彼女はそれだけは言わないだろう。全人類の命がかかっているのだから。
「死にますか?」
 まるで、「遊びにでも行きましょうか」とでも言うような気軽な言い方だった。
 それだけに本気だということが、彼女にはわかった。
「知りません。知りません知りません知りません!」
 生まれてから数十年間すり込まれた教育を破ることは、死を目の前にしてもできない。
「仕方ありませんね」
 男の手が首にかかる。恐怖に頭が空白になった。
「引き継ぐ?魂に?」
 数秒そのままの体制でいた後、首にかけた手をまたゆっくりと放しながら言われた男の言葉に、女は心を読まれ たのだと知った。
「なるほど。やはり神器の鏡ではなかったのですね」
「ど・・・うして」
 一人で納得したようにうなづく男にやっとの思いで問いかける。
「不思議でも何でもありません。あなたをお招きしたこの場所は私の世界。ここでなら人の無防備になった心を覗く など造作も無いことです。さて、それでも見えなかったものがあります。なかなかあなたの心のガードが堅かった ものでね」
「わたくしは何も答えません」
「封印は今、どなたが受け継いでいるのですか?」
「・・・」
「死にたくないでしょう?」
「・・・・・」
 ひとつ、ため息をつく。
 手始めにこの女を殺してみようか。もう用は無い。
 しかしふと、この自分の空間を人間の薄汚い血で汚すのもどうかという想いが浮かんだ。
「少しくらい、自分で調べてみますか。どうせあなたか、あなたのご兄弟あたりでしょうし。それとも・・・」
 いつの間にか女は目を閉じ、外界を一切遮断している。
 男は、暫く対屈しないで済みそうだと笑った。
 そう、少しくらい楽しみがなければこんなくだらない世界で生きていくのは難しい。
「いいでしょう。あなたの命、預けておきます」
 闇から開放されたとき、女の心は、ずっと奥へと逃げていた。




「ごめんなさい。お母様。ごめんなさい」
 甲高い怒鳴り声とともに、姉の謝る声が聞こえる。
 またか。と、ちづるは思う。
 また母のヒステリーが始まった。
 神事の舞に始まり、古武術の演舞。月に一度、次期当主である姉はそのすべてを母の前で演じなければならない。
 誰が決めたのか、迷惑な話だと救急箱の用意をしながら溜め息を付く。これさえなければ姉の心も、もう少しは 軽くなるだろうに。
 それでも昔はこんなにひどくなかった。2,3年前からだろうか、母が何かにおびえるように厳しくなったの は。
 とにかく、姉さんを助けに行かなくては。
 救急箱を壁の陰の目立たないところに置き、道場の中へ入る。
「お母様。稽古をつけていただきたいのですが」
 案の定、母は無抵抗の姉をたたいていた。
「お母様、ちづるに稽古をつけてください」
 姉をかばうように母親の前に立ちはだかり、二人の間を遮る。
 どうせ指が伸びていない、覇気が感じられない、真剣さが足りないなどの言いがかりをつけたに決まっている。こ んな人間に生きる価値などあるのか。
 勢いで一度ちづるをたたいた後、よくわかっていないような顔でその手を見つめ、自分は疲れたから休む。稽古 は明日にしましょう。と言い残し、道場を出て行く。
 これがいつものパターンだった。
「姉さん。私、我慢できないわ。あんな人、蹴り飛ばしちゃいなさいよ。姉さんにできないのなら私がしてあげる」
 切れて血のにじんだ口の端を消毒してやりながら言う。
「だめよ。そんなことしちゃ。お母様だって本当は優しい人なのだから」
 そして困ったように笑った。
「甘い!甘いわ、姉さん。私ね、思うの。いつまでもこんな古いしきたりにこだわり続けてるなんて馬鹿みたいだっ て」
 本当にいるかどうかもわからない、オロチという伝説の中の蛇神の封印を護り続ける一族。
 だれも本心では信じていないくせに、歴史のある名家としての威厳のためだけに本家の長女を封印の巫女としてあが め、当主に添える。
 利益第一のそんな彼らの姿は彼女から見ればとても滑稽で、そして何より大切な姉がそんなことのために苦しん でいるというのがたまらなく嫌だった。
「はっきり言うのね」
 ちづるのその強気できっぱりした性格を姉は嫌いではなかった。
 どちらかと言えば何者をも恐れず、自分で未来を切り開いていくちづるの姿は、家の束縛から逃れられない彼女 にとっての救いとなった。
 消毒も終わり、小さな絆創膏を貼ると、ちづるは真剣な顔になって姉に言った。
「姉さん。一緒にこの家を出ない?」
「え?」
 突然の申し出に答えを窮する。
「高校を卒業したら家を出るつもりなの。姉さんも一緒に行こう。大丈夫。姉さんと一緒に暮らしていけるだけの お金はもう貯まってるし、まだあと一年もあるんだから余裕よ」
「ちづる、あなた・・・」
 別に驚くほどのことではないはずだった。ちづるなら、いつかそのくらいのことはやりそうな気がしていたから だ。しかし、金のことについては・・・。
 バイトを始めて一年やそこらでそんな大金を貯められるはずが無い。
「あなた、また予見をしているの?」
 この双子の姉妹には不思議な力が備わっていた。姉には霊視、妹には予見の力が。
「力を使ってはいけないとあれほど・・・。その力は時には不幸を呼ぶわ!ダメよ、今すぐやめなさい。私のことは いいわ。あなた一人の分で済むのならそんな力、使わなくてもいいでしょう?」
 まだ二人が幼かったころ、家のためだといわれて何度か金をもらって力を使ったことがある。その中のひとつに 、ある会社の投資先の予見があった。そこはどうしても潰れるから投資は無駄になるというちづるの言葉に従って、 その会社は投資を見合わせたわけだが、数日後、あの事件が起きた。
 ちづるがクラスメイトの一人にカッターで切りつけられたのだ。
「お前の、お前のせいで父ちゃんの会社が潰れたんだぞ!」
 少年はすぐに教師により取り押さえられたのだが、それでも泣きながら何度も繰り返し叫んだ。
「お前のせいで、お前のせいで・・・・!!」
 腕に包帯を巻いて帰ってきた妹を見て驚いた姉は、話を聞くとすぐに母親に抗議をしに行った。こんな、人を傷 つけるような危険なことをちづるにさせないで。と。
 それが姉が母親に逆らった最初で最後の出来事だった。
「平気よ。今はあのときみたいな失敗はしないわ。私のことが周りに洩れないようにしてるから安全よ」
「違うのよ、そうじゃないの。いえ、それもあるけど・・・」
 ちづるには欠けているものがある。それは他人の気持ちを考えることだ。あの事件の時も、ちづるは少年に襲わ れた理由がわからずにいた。
 なぜ私が悪いのか。潰れるのは運命だった。私は本当のことを言っただけ。
 決して冷酷ではない。こんなに自分に優しいのだ。何かきっかけさえあれば人の気持ちを考えることの大切さが わかるはずだが、その前に予見をすることによって起きる結果に心を壊されてしまうかもしれない。彼女にはそれ が心配だった。
「一人で家を出るつもりは無いわ。ずっと一緒にいる。私を必要としてくれるのは、姉さんだけだもの」
 無邪気に笑うちづるを愛しく思う。何も知らないでいるからこそ、純粋でいられるのかもしれない。しかしそれ ではいけないのだ。生きていく上で知らなければいけないことはたくさんある。
「なら、せめて他の方法を探しましょう。私も協力するから、ね?」
「分かったわ。もう予見はやめることにする。あ、私稽古していくから。姉さん、先に戻ってて」
 うなづいて救急箱を持ち道場を出て行く姉を見送ると、ちづるは一人、型を始めた。
 私が姉さんを護る。
 一の型、二の型と動きをなぞりながら、ちづるの頭の中はそのことだけでいっぱいだった。
 父も母もほとんど姉のことしか見ない。もちろん一族のものは皆そうだ。
 姉さんは次の当主だし、何か大切な役割を持ってるみたいだから。
 お前は姉を護らなければならないと、たくさんの痣を作りながら武術を叩き込まれた。
 それも当然のことだと思っていた。いつも厳しく作法を受けている姉を羨んだことなど一度も無い。それどころ か自分と一緒にいると楽しいと言ってくれる姉が好きでしょうがなかった。
「一緒に遊ぼ?」
 今でもはっきり覚えている。
 双子でありながら別格扱いされ、いつも遠巻きに見るしかなかった姉が、そう手を差し伸べ初めて声を掛けてく れたとき、実は自分は寂しかったんだということに気がついた。
<私が姉さんを護るんだ。護るため、必要とされている>
 ちづるは、そこに自分が生きる意義を見い出した。


 戸が騒がしくガタガタと鳴る。
「風が強いわね」
 学校から帰ってきてすぐに巫女の服に着替え神殿の掃除をしていた二人は、作業を一時中断する。
「本当、台風が来るなんて言ってたかしら」
 ちづるが雑巾を持ったまま立ち上がったとき、二人は凄まじい悪寒に襲われ身を抱えた。
「何、これ・・・」
「姉さん!!」
 さっきを感じたちづるが咄嗟に姉を庇うと同時に、神殿の扉が激しい音を立てて砕け散る。
「これはまた、綺麗なお嬢さんたちですね」
 扉があった場所には一人の男が立っていた。
 相変わらず強い風が吹き付けているというのに男は微動だにしない。
「誰?!」
 殺気を放っているのも、自分たちに悪寒を感じさせるほどの邪気を放っているのも間違いなく、この男だった。
「これは失礼。私の名はゲーニッツ。牧師です。あなたがたと同じく神に仕えるもの。オロチという名の神にね」
「オロチ?!」
 思わず叫び声をあげるちづるとは反対に、姉は落ち着いた声で言った。
「ここに鏡はありませんよ」
「鏡?そんなもの必要ありません」
 男はずっと薄笑いを浮かべている。
「数年前にね、あなた方の母上にお会いしまして。やっと、本当のオロチの封印のありかを知ることができました」
 ちづるにも、今、この状況がどれだけ危険なものかは分かった。封印がどこにあるのかは知らないが、姉だけは 護らなくては。
「少し、時間がかかってしまいましたが、いろいろあったので仕方ありませんね。さて、どちらのお嬢さんでしょ うか。封印をその身に宿しているのは」
「!!」
 この男は何を言っているのか。
 ちづるには何のことだか分からなかった。
 答えを求めるように姉を見ると、その顔が青ざめている。
<姉さん!!>
「どちらも殺してしまえば、問題なしでしょうか」
「させないっ!」
 姉さん、逃げて!
 瞬時に理解したちづるはそう小さく言ったあと、ゲーニッツに挑みかかった。
 一撃目はかわされるが間髪あけず次の攻撃を繰り出す。
<神棚の後ろに隠し戸があったはず。時間を稼ぐことさえできれば>
「なかなかの疾さです。しかし、まだまだですね」
「がはっ」
 突然吹き上げた風にちづるは天井に激しく叩きつけられ、そのまま落下する。
<何!?>
「そうそう、言い忘れていましたが、一族の間で私は『吹き荒ぶ風の』ゲーニッツと呼ばれているのですよ。お嬢 さん」
 あばらが何本か折れたのが分かった。口の中に鉄の味が広がる。しかし、このまま倒れるわけにはいかなかった。
「タカマノハラニカムヅマリモウスカムロギカムロミノミコトモチテ・・・・」
 よろつきながらも立ち上がり、両手を合わせた後、指先だけをつけるようにして両手を広げ、前に突き出す。
「何を」
「カーン!!」
 最後の言葉とともにその手から放たれた閃光が咄嗟に避けきることのできなかったゲーニッツの脇腹をえぐった。
「ぐ・・・よくも」
 鮮血が飛び散る。ゲーニッツは目を見開くと、何ごとかを叫んだ。
「あうっ」
 もう動くことのできないちづるを渦巻く風が襲い、全身を切り裂く。
「遊びが過ぎましたね」
 ゲーニッツはゆっくりとちづるの前に立つと首を掴んで持ち上げ、そのまま壁に叩きつけた。
「お別れです!」
 ゲーニッツの手刀がちづるを狙い、そして突き刺す。
「あ・・・」
 しかし刃を受けたのはちづるではなく、その姉だった。
「姉さん・・・なんで・・・」
 貫いた手が引き抜かれると、その場に崩れ落ちる。
「姉さんっ!!」
 ちづるは姉を抱え上げた。
「どうして!?逃げたんじゃなかったの!?」
 胸の傷口を両手で必死に押さえるが、生暖かい血の流れが止まることはない。
「なんで止まんないの!?止まってよ!やだ、どうしてよ!!」
 白かった服も、あっという間に袴と同じ紅に染まっていく。
「お願い!止まって!!」
 ちづるの手にようやく動く片手をしっち置き、姉は、もういいのだと言った。
「ごめんね。あなたの気持ち、わかったから、そうしたかったのだけど・・・できなかった」
 ごぼ、と音を立てて、その唇からも大量の血が流れ出る。
「しゃべっちゃだめ!待ってて、今、今私が・・・」
 とにかく血を止めなければ。この血を止めなければならない。
 赤く染まる床や服、自分とは反対に、姉の顔は青ざめ、そして白くなっていく。
「わからない。どうして?そうして戻ってきたりなんか・・・」
「わかって・・・私にも、あなたが大切だった、の」
「これは・・・」
 血が止まらない。
 どうしようどうしようどうしよう。
 あせればあせるほど、なにをしたらいいか分からなくなる。
「いや、いやだ。姉さん、だめよ。私を独りにしないで。ねぇ、姉さん・・・お願い」
 このままでは姉が死んでしまう。
 死ぬのは自分のはずだ!
「私の気持ち・・・わかって、ちづる」
<あなたが私のために戦っていると知りながら、逃げることなどできはしなかった>
「これは・・・そうですか。あなたが封印を持っていたのですか!」
 ゲーニッツの歓喜の言葉など、もはや耳には入っていなかった。
「姉さん、姉さん!」
「ごめ・・・・ん」
<哀しませて、ごめんなさい>
 ゆっくりと、瞳が閉じられる。
 傷口を押さえるちづるに重ねられた手が力を失い滑り落ちた。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 血だらけの手で頭をかきむしる。
 嘘だ!こんなことがあるはずがない!!
 だが目の前に突きつけられた現実。
 優しい姉が自分一人を置いて逃げるようなことはしないと、分かるべきだった。少し考えれば、容易に想像が付 くことではないか。ゲーニッツに目もくれず、二人一緒に逃げることを選べば姉は命を落とすことなど無かったか もしれない。
 無力だ。
 誰が誰を護るというのか。結局最後まで自分は姉に護られっぱなしだったではないか。自分のふがいなさが悔し い。許せない。自己犠牲に浸っているだけで、何もできはしなかった。苦しさに身が締め付けられる。息がうまく できない。
 まだぬくもりの残る、しかし二度と動くことのない姉の体を抱き締め、ちづるは生まれて初めて声を上げて泣いた。
「面白い。実に面白い」
「何をっ!」
 睨み付けられ、ゲーニッツはくつくつと笑った。
 えぐりとられたはずの脇腹の傷は、どうしたことか、血の跡だけを残して消えている。
「オロチの力は解放されました。この傷が治ったのが証拠です。エネルギーが漲るのを感じます」
 ゲーニッツを取り巻く風が一気に強まり、木製の壁に数え切れないほどの裂け目ができていく。
「あなたの命を奪うのはやめておきましょう。半身を失ったあなたがこれからどうするのか、見てみたい」
「殺してやる。必ず貴様を殺してやる。姉さんの命を奪ったこと、後悔するがいい」
「そう、その調子です。今のあなたは先ほどよりも気に溢れている。楽しみは、残しておかなくては」
 ゲーニッツは楽しそうに笑いながら突風とともに姿を消した。
「私を傷つけたこと、許して差し上げましょう。あなたのその苦しみは、運命だったのですよ」
「苦しみが運命というのなら、はなから逃れるつもりなどない」
<私はそれを・・・超えてみせる>
 折れた骨が何かの器官を圧迫しているのか、すでに体の自由は利かなくなっていた。
 呼吸をするというのは、こんなにも重労働だったか。
 姉さん・・・。
 ちづるは、姉の傷口を再び無意識のうちに押さえていた。
 穴。
 自分の胸にも穴が開いた。
 絶えなく血が流れ出る。
 もう、この穴が閉じることはない。
 死。
 姉の死に顔。
 それは自分の死に顔でもある。
 何かが、自分の中に何かが、姉と共にに死んだのをちづるは感じた。
<強くなる・・・強く>
 誰にも負けないくらい。すべてを護れるほどに。
 失われた扉の先の、何もない闇夜を、ただ、睨み続けた。





 数年前、最初で最後の自作本に載せたもの。この話はUPするかどうするかかなり迷ったのですが、自分 の中のちづるはここから来ているので載せることに。
 いくらか付け足してあるものの筋は変わっておりません。私の書くシリアス話の彼女の中には常に大切な人を自分の力不足のせいで死 なせてしまった悔しさと絶望があります。


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