月映
なぜそう思ったのだろう。
「泣いているのか?」
そんな言葉が自然に口から出た。
驚いたように顔を上げた女の目に、涙などありはしない。
当たり前だ。何を泣く必要がある。試合に勝ち、決勝に出ることが決まったばかりだというのに。この女がそんなことでうれし涙を流す
とでも?いや、そんなタイプではない。うれし涙など有り得ない。だが、今、涙を流すほど悲しむ理由も一つもありはしない。では、なぜ
そう思ったのか、そう見えるのか・・・。
日が落ち始め、空は夕日の赤から闇の一歩手前、紫へと変わりつつある。
照明もつけず、薄暗い控え室にいたちづるの後ろ姿に、庵は無意識に声を掛けていた。
「泣いてなんかいないわよ」
ちづるはちょっと困ったように笑って立ち上がると、荷物の入ったバッグを肩に掛けた。
「決勝は明々後日よ。草薙はもう帰ったわ。あなたも早く帰ってゆっくり体を休めることね。お疲れさま」
「・・・」
「じゃ、また三日後に」
ドアに腕を組んで寄りかかる庵と目を合わさず、そのまま前を通り過ぎる。
なんだろう。吹き抜ける、このよそよそしい空気は。
「神楽」
足早に去ろうとしたちづるは名を呼ばれ、予想していたとでもいうようにゆっくりと足を止める。
「いいのか?これで」
振り返り、庵を見つめ、それから視線を落とし、小さくつぶやく。
「これが、私の望んでいたことだもの。」
そしてゆっくり歩き出す。今度は庵も呼び止めはしなかった。
「『私の』・・・ね」
鼻で笑い、壁から身を起こすとそのまま電気をつけずに薄暗い中で着替えを済ませる。
自分らしくない。何をこんなに気にしているのか。
去年に続き、今年の決勝戦もただではすまないだろう。命を懸ける何かが起きる。そして神楽はそこで死ぬつもりだ。
死ぬ?それもおかしな表現か。
初めて会ったときから今まで、あの女が生きていた瞬間などありはしなかった。
<一体どこに命を置いてきた?>
何度も、いっそのこと楽にしてやろうかと思った。そのたびに、そんな親切は自分らしくないとやめた。
そう、殺すことはあの女にとって親切になってしまう。
<邪魔をしてみようか>
意地の悪い考えが頭に浮かぶ。
死ねなかったら、どうなるのだろう。
結局、生き残ることになったらどうなるのだろう。
壊れるのか、それとも失くした魂を得るのか。
置いてきた命を取り戻すのか。
何も残らず人形同然になるかも知れない。
「おもしろい」
残酷な笑みを浮かべ、ロッカーを閉じるとそのアルミ製のドアを殴りつけ、こぶしを埋め込む。
思い通りにさせはしない。
死なせてなどやりはしない。
生き返らせてやる。
<それで貴様がどんなに苦しもうと、俺は知らない>
そうすれば少しは気が晴れる。
あの何も映さない瞳に月を見ることも出来るだろう。
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