空蝉


   空蝉




Act1
彼はもうずぅっと長い間闇の中にいた。
自分が立っているのかも座っているのかもわからない。
ただ、自分がここにある、それだけは確かだった。

まどろむように、自分の存在意義を考えるなど無駄なこともせず、緩やかな時間の流れに身を任せる。
この闇から逃れられることなど、ありはしない。
それは諦めだったのかもしれない。

そしてそのときは唐突に来た。
彼の居る闇に、ひとつの丸い大きな光が現れた。
暗闇しか知らない彼はあまりのまぶしさに目を細め、その瞳が新しい状況に慣れる前に光の中へ歩き出していた。
世界が広がったのがわかった。
呼ばれている。
目がつぶれてしまうのではないかと思うほどの明るさにも慣れ、細めていた目を軽く手をかざして守りながらゆ っくりと開ける。
白い女が立っていた。
氷のように冷たく美しい瞳、白く抜ける肌、黒く艶のある長い髪が彼女を飾る唯一のアクセサリーのように思える。
白いワンピースに身を包み、無感動に自分を見つめる女はなにも言わず軽く手を差し出した。

あぁ、そうか。
彼は微笑むと彼女の前にひざまづき、その手をとって口付けた。
「貴方の望むままに」
背筋がぞくぞくする。心が沸き立つ。
この女神に仕えるために自分があったのだとしたら、これまでの時間も意味があるのかもしれない。
一目見たその瞬間から、彼は自分を闇から誘い出したその女神に夢中だった。



Act2
「夢を・・・見たの・・・」
彼女がそう言った。
ソファによりかかりけだるそうに髪をかきあげ、起き掛けの乱れた着衣もそのまま、つぶやくように。
「なんか、幸せだけれど、嫌な夢」
彼はただ黙って女主人の言葉を聞いていた。
内容は想像がつく。彼女にとっての悪夢はひとつしかないからだ。
ゲーニッツはちづるの横に静かに腰をかけ、その髪に自分の指をからめた。
艶やかな黒髪が指の間をサラサラとすり抜ける。
「また姉さんが死んだ気がする」
ちづるは天井を見上げ目をつぶる。指で髪を梳かされる感覚はなんとなく彼女を落ち着かせた。
双子の姉を殺したオロチ四天王のゲーニッツ。
今彼女と一緒にいるのはその男の影だった。いや、影とも違う。鏡に映った逆しまの虚像。
自分を支配することで彼女の心が慰められるのならそれはそれでいいのではないだろうか。

闇から呼び出され、行動をともにするようになってからどれくらいの時がたったのだろう。
ちづるは何を命令するでも求めるのでもなく、ただ、彼をそばにおいた。
そしてゲーニッツは彼女を慈しむ。自分をこの世界に招いた時から、彼女は少し、壊れていた。
光のこの世界で出会った瞬間から自分は彼女のためだけに存在するのだと感じた。それは間違いではないだろう。

「まだ暗い、もう一度お休みになったらいかがです?」
そっと頭を撫で、ささやきかける。
ちづるのうつろな目がふと、彼のほうを見た。
「大丈夫、もう夢は見ませんよ」
その大きな手を彼女の目の上にかざし、そっと閉じてやる。
そのまま抱き上げベッドへと運んだ。
ちづるは逆らうこと無く身を任せる。悪夢にうなされ夜中に起き出すのは良くあるとこだった。
「さぁ、おやすみなさい」
横になったちづるの頭をもう一度そっと撫でてやり、それからベッドの横に腰を下ろす。
やがてまた静かな寝息が聞こえてくるまで彼はずっとそうしていた。



Act3
寂しいわけじゃない。
ただ、オロチもいなくなった今、他にどうすれば良いのかわからなかっただけだ。

今、同じ部屋にいる男、ゲーニッツ。

いや、正確には違う、最愛の姉を殺したゲーニッツの、その男の影。
テーブルの向かい側で新聞を読んでいる彼にちづるは突然デコピンをした。
「?!」
不意打ちでまともにデコピンをくらい、目を白黒させてる彼を見ていると無性にいぢめたくなる。
「な、なにか・・・・?」
「なんでもないわよ」
ちょっと不思議そうな顔をして、結局なにも無かったかのようにまた新聞に目を戻す。
逆らいもせず怒りもせず。
オロチを封印という姉の遺志を継ぎ、達成した後やることもなくなったので腹いせに鏡から呼び出して見たものの、 従順すぎるその態度によくイライラさせられる。
最初の予定では無理やり自分の力で従わせるはずだったのだ。
それなのに・・・。
『貴方の望むままに』
それが男の第一声だった。
つまんないじゃない!!
そんな不満が彼女の中にある。
それからどんなわがままなことも理不尽な八つ当たりもすべて彼は受け入れた。
そしてそれに甘えてしまっている自分が居ることにも腹が立つ。
いっそのこと鏡に戻してしまおうか。そしてまた違う彼を呼び出せばいい。
そんなことがふと頭をよぎる。
「さて、コーヒーでも入れましょうか?」
新聞をたたみ、ゲーニッツが腰を上げる。
「もちろん、ミルクをたっぷりお入れします」
その笑顔を見る限りデコピンなんて忘れてるのは確実だ。
「クッキーもつけてくれる?」
「はい、いいですよ」
キッチンへ向かう後姿を見ながら、ちづるはもうちょっとこのままでもいいか、と、いつものごとく思い直すのだった。



Act4
「すっかり遅くなっちゃった」
腕時計で時間を確認しながらちづるは小走りになる。
提出期限の近いレポートを書くために大学の図書室で調べ物をしていたらいつのまにやらもう夜の8時を過ぎていた。
一般的な女子大生の帰宅時間としてはむしろ早いほうだとは思うが、彼女には家で食事を作って待っている人が居る。
別に無視して真夜中に帰ろうとも彼は何も言いはしないだろう。
ただ、ちづるは彼の作る料理がとても好きだったし、夜遊びなどというものには興味が無いので、いつも寄り道 をせず7時には帰宅という規則正しい生活を送っていた。
少しでも早く帰ろうと、ジジッっと死にかけのセミのような音を立てて外灯が点滅する小さな路地に入る。
すると建物の壁に寄りかかるように立つ、一人の青年が目に入った。
暗くて顔は良くわからないが、少なくとも知り合いではない。
気にせずそのまま前を通り過ぎようとしたちづるは突然その青年に腕をつかまれ思わず前につんのめった。
「あっ」
バランスを崩しよろける。
「おっと、ごめんね」
青年はそのまま腕を引きちづるを抱きとめた。
「・・・どちら様?」
すぐにちづるは相手を押しやり身を離す。
白い髪のその青年にまったく見覚えはなく、それどころか彼からは好きになれない空気を感じる。
「おねーさんに興味があってさ」
質問に答える気は無い様だ。睨まれていることに気づいているのだろうに、彼はにっこり笑い両手を広げた。
「ねぇ、これからボクと一緒に来ない?」
新手のナンパだろうか。こういう輩は無視するに限る。
「急いでいるので」
人懐こそうな笑顔に目もくれず、ちづるはさっさとその場を去ろうとした。
が、今度は腰にしっかり手を回され、あからさまに抱き寄せられる。
「なにを・・・!」
「逃がさないよ」
「その手を離しなさい」
低い声とともに腰に当てられた青年の手がふっと軽くなる。突然現れた第三者によって捩じ上げられたのだ。
「気安く彼女に触れないでいただきたいですね」
その声にちづるはとても聞き覚えがあった。それものそはず、今頃食事の用意をして部屋で待っているはずの彼だったの だから。
ちづるは驚いたもののすばやく青年から身を離し避難する。実は少し怖かったなんて口が裂けても言えない。彼が来てほっと したなんて自分のプライドが許さない。
「遅いのでつい迎えに来てしまいました」
「一人で帰れたわ」
ちづるからすれば見上げるほど身長の高い彼、鏡より呼び出されたゲーニッツはぷいと横を向くちづるに微笑みかけ、次いで白髪 の青年の腕を左手で握ったままもう片方の手で首を掴んだ。壁に押し付けられた青年は抗うこともせずじっとゲーニッツを見ている。
「子供は家へ帰る時間ですよ?」
彼は顔を近づけ独特の皮肉めいた表情で言った。そこら辺のチンピラならその凄みに尻尾を巻いて逃げ出すのは確実だ。
「吹きすさぶ風のゲーニッツ相手じゃ・・」
答える声はゲーニッツの手の中では無く背後から聞こえた。
「ちょっと分が悪いかな。今はね」
「?!」
振り返ると、壁に押し付けられていたはずの青年が外灯のすぐ下に腕を組み飄々と立っている。同時に両手にあった感触も消えていた。
二人は掴まれていた彼がいつの間にか背後にいたことよりもゲーニッツの名前を知っていたことに驚き、警戒した。
「なぜ私の名を・・・?」
「こっちこそ聞きたいね。なんであなたがここにいるんだい?」
弱弱しい光に照らし出されたそばかすに狐のような目をした青年はちづるを見、そしてゲーニッツに視線を移し、納得したようにポンと手を打った。
「あぁ、そういうことか。いい趣味してるね、おねーさん。おっと・・」
無言で首を狙って放たれたちづるの手刀を軽々とかわし、再び距離を置くと青年はとても楽しそうに笑った。
「決めた、神楽ちづる。やっぱりあなたはボクのものだ」
そのまま夜の闇へと紛れて消える。
「KOFで待ってるよ」
ちづるもゲーニッツも、彼を追うことはしなかった。


「やはりKOFへ参加するんですか」
「ここまで干渉されて、さすがに腹が立つわ」
エビチリを食べながら、ちづるは静かに闘志を燃やす。
いつもなら自分の手料理を食べるちづるを嬉しそうに見守るゲーニッツだったが今日はそんな気分ではなかった。
「嫌な予感がします」
「大丈夫、草薙と八神の二人と組むんですもの。負けはしないわ」
美味しい食事で機嫌を直し、ちょっと過保護なんじゃない?と笑う。
「私の名を知っていたことが、気になるのです」
今日だって本当は遅いから迎えに行ったのではない、確かに彼が外へ出た一つの理由ではあったが、その足をあの路地へ向かわせた一番の理由はあの青 年の発していた邪悪な気だった。あれはただの人の発するものではない。
「せめて私も・・・」
「ダーメ、あなたはここで待っていて」
食べ終わり、食器を片付けながらちづるは言った。
「悪夢は自分の手で終わらせなければ、いつまでも続くのよ」
ちづるも、先の青年のただならぬ気は感じ取っていた。
しかし今考えても仕方が無い。
もうすぐ家の者に頼んでおいたKOF参加者の調査書も届くだろう。そうすればとりあえず、今日会った相手の名前くらいはわかる。
すべてはそれからだ。
大体、こういうときは実際に大会が始まらないと事態も前に進まない。待つしかないのだ。
そして大会に向けて少しづつ確実に、時間は進む。
「全部終わったら、たまにはどっか食べに行きましょ」
お互い心のどこかにある暗い不安を認めながらも、それ以上口に出すことはせず、食器を洗い、拭いてしまうことに集中した。
この時、無理やりにでも出場を取りやめさせなかったことをゲーニッツは後々とても後悔するはめになるのだが、もちろん今の彼が知るはずもない。



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