聖人の夜 「ハッピーバレンタイン!!」 そんな台詞とともにばんっと大きな音を立ててドアが開かれ、そこには満面の笑顔のちづるが仁 王立ちしていた。 「…ノックくらいしたらどうだ」 正直かなりびっくりしたのだが、そんなふうにはかけらも見せず、庵は一度止めた手を再び動か しベースを弾く。 「やっがっみ、今日はバレンタインデーよね?」 「だからなんだ」 何を言いたいのかはわかっている。だが素直に返事を返したときの反応が怖くて、庵は気づかない ふりをした。彼女が手に持っているその物体に。 そう、逃げられないことがわかっていても・・・。 「はいこれ、チョコレート!!」 ベッドに腰を下ろしたままちづるの方を見ようともしない庵の前に突き出された箱は、いかにも 自分でやりましたとでもいうような、雑な梱包がされている。 「…」 「ちょっと作るのに手間取っちゃって夜になっちゃったけれど、頑張ったの。ね、食べて?」 まるで子犬のような、期待に満ちた瞳で見つめられて庵は仕方なく箱を開ける。 「……なんだ、これは?」 「チョコレートケーキ。形はちょっと崩れてるけど、味はいいはずよ」 <ちょっと…なのか?> それはまるでいくつもの泥ダンゴを丸めてプレスした上に白い砂を混ぜたような、とても不思議 な形と色をしていた。 <チョコレートというのはもっと違ったような・・・> 口に入れるにはかなり抵抗があるチョコレートケーキらしい物体と庵がにらめっこしていると、 ベッドの脇に置いてあった大きな紙袋をちづるがあさり出した。 「ねぇ、八神。これって…」 「ん?あぁ、今日もライブがあってな。女どもに大量におしつけられた」 どれもきっちり綺麗な梱包がしてある。 きっと高いものなのだろう。 「…」 紙袋の中身をじっと見つめるちづるには気づかず、庵は目の前の難関を乗り越えるのに必死だっ た。 <死にはしないはずだ> そう自分に言い聞かせ、一口、食べてみようと試みる。 「待って!!」 口をつけようとしたその瞬間、いきなりちづるに横からぶんどられる。 「あははは、やっぱりいいわ。こんなにチョコレートがあるんじゃもう飽き飽きでしょ?」 「何を言って…」 「ごめん、もう帰るね」 突然の態度の変わりように庵は戸惑う。 「神楽?」 「夜に突然押しかけてごめんね」 こわばった笑顔でそう言うと、勢い良く部屋を飛び出していく。 「なんだあれは」 ちづるがいきなり来て、いきなり去っていくのはいつものことだ。だが、今回ばかりは気になる。 「紙袋の中に何か変なものでも・・・」 さっきまでちづるのあさっていた袋の横に、中くらいの箱が置いてある。庵は立ち上がるとその 包装用紙のはずされた箱を開けてみた。 中には形の整った、綺麗なチョコレートケーキがひとつ。 「あの馬鹿が」 大きく舌打ちすると、紙袋の中にそのチョコレートケーキを突っ込みそのまま抱えて鍵も閉めず に部屋から駆け出した。 「神楽っ」 「八神?」 夜道をとぼとぼ歩くちづるを見つけると、庵はその手をつかみ問答無用で近くの公園まで引っ張 っていく。 「ちょ、八神っ。そんな引っ張んないでってば!!」 ちづるの抗議は無視され、そのまま公園の入り口につくと周りに人がいないのを確認してから庵 は怒鳴った。 「この馬鹿者が!」 ちづるは思わず首をすくめ、庵が何を怒っているのかもわからずただ目を潤ませた。 「形を気にしてどうする。そんなもの関係ないと思ったからこそ、俺のところへそのチョコレートを 届けにきたのだろう」 「だ、だって…」 いざ完璧なものを見たら、自分の作ったチョコレートケーキがとても惨めなものに見えたのだ。 庵もその形のせいで最初は食べるのをためらっていたのだが、そんなことはもうすっかり忘れて いる。 「顔も良く知らない女からもらったものなど、俺にとってはゴミ同然だ」 片腕に抱えてきた紙袋を公園のゴミ箱に突っ込む。もちろん中身は入ったままだ。 「貸せ」 「や、八神?!」 今度はちづるの手から手作りチョコレートケーキをとりあげ、一気に口に頬張る。 意外に味は良かった。 「八神…」 ちょっとほっとしながら飲み込むと、つかんだままのちづるの手を引っ張り、また歩き出す。 「帰るぞ」 一瞬の出来事にちづるは呆気にとられていたが、途端に笑顔になって横に並んで庵の手を握り返 した。 「えぇ!」 街灯の照らす薄暗い夜の道で、庵の顔がちょっと赤く見えたのは気のせいだけではないだろう。 |