雨と恋





ちづるは窓を開けベランダから外を覆う雨のカーテンを見つめていた。
小雨の降る音はとても優しい。
久しぶりのの雨だ。夏が終わってすぐのこの時期でも天気が崩れるとずいぶん冷える。その空気の冷たさも彼女には心地よかった。
これまでどれだけこんなひとりきりの時間を過ごしただろう。


ピンポーン


部屋のチャイムが鳴る。
はっと我に返り時計を見ると、朝食を終えて少しだけぼーっとしているつもりがもう2時間も経っていることを知った。
チャイムが無ければあと最低でも1時間はこうしていたかもしれない。今日は一日オフで、ちづるはこんな休みの日の過ごし方はとても不 器用だった。
(珍しいわね)
ちづるの部屋への来客というのはめったに無い。
あまり一人暮らしをしているこの住所を知られていないということもあるが、もともと彼女には部屋を訪ねてきたりするような親しい人間 が少ないのだ。
「はーい、今出ます」
実家や会社からの宅急便か何かかと思いつつ返事をし、ドアを開けると意外な人物が立っていた。
「八神?」
今までモノクロの世界に浸っていたちづるにその赤い髪はとても鮮明に映る。
「どうしたの?今は確かライブツアー前の準備で忙しいんじゃ…?」
「邪魔か?」
黒の長袖シャツにジーパンという今日の寒さに対して軽装な庵を外に立たせておくわけにはいかない。
それに庵は今、ちづるにとって特別な存在だ。
「そんなことない、入って」
窓を全開にしていたのは失敗だった。はっきりいって部屋の中もあまり外と変わらない寒さだ。
庵をダイニングテーブルへ案内すると急いでエアコンを入れ、熱い茶を用意するために電気ポッドのスイッチを入れる。
「でもほんとどうしたの?今日は会えないと思っていたからすごくびっくりした」
カップを出し、茶菓子を用意するなどせわしなく動きながらちづるは聞いた。
「恋人に会いに来るのに理由はいらんだろう」
「そ、そうだけどっ」
薄く頬が染まる。
「…なんとなく、今日はお前を一人にしてはいけない気がした」
その言葉にさらに頬が赤くなる。
嬉しすぎてどうにかなってしまいそうだ。
「ありがと、八神」





八神庵と付き合うことになったのは半年ほど前。成り行きというか勢いというか、とにかくなぜかそういうことになった。
もともと好意を持っていたわけだし、そのことはとても嬉しかったが、だからといってそれからなにかが変わったわけでもなく時間が過ぎて いる。
普通にデートもするし、自分が八神の部屋に行くことが圧倒的に多いとはいえ頻繁に会ってもいた。
が、そこまでだ。
20を過ぎたカップルとは思えないほど健全な日々を送っていた。
実はその大きな理由はちづるの天然な無邪気さのためだということを本人はまったく気づいていない。
ただ口下手な庵が未だに「好きだ」とも「愛している」とも一度も言ってくれないことだけがちょっと不満だった。
自分たちは本当に「恋人同士」なのだろうかと思うこともよくある。

そんな関係だからだろうか、少し優しい言葉をかけられるとそれだけで気持ちが舞い上がってどきどきするのだ。
我ながらお手軽だなぁと思いつつ、入れた紅茶を手に戻る。
「寒くてごめんなさいね、でもすぐに暖まると思うから」
「かまわん」
ぶっきらぼうな話し方も相変わらずだ。
もってきた皿を並べながらちづるはクスリと笑った。
「ん?」
「ううん、なんでもない」
忙しい中会いに来てくれた。それだけでこんなに嬉しい。
ちづるは幸せで自然と笑顔になった。
「いつも…、一人のときはなにをしているんだ?」
ここまで喜ばれると思っていなかったので、ちづるの満面の笑みに逆に庵のほうが戸惑う。
目が覚めて外の雨を見たとき、ひとりで寂しい思いをしているのではないかとふと、思った。
孤独に慣れていると言いつつ孤独を怖がる彼女を知っている。
知名度も上がり、近くツアーを控えるバンドの方が忙しくて最近顔を見ていないのもあり気がつけば服を着替え、車のキーを握っていた。
実際来てみればこの反応。たぶん予想は間違えていなかった。
「ひとりのときは、うーん、寝てるかぼーっとしてるかかしら」
向かい側に座ったちづるはカップを両手で覆うようにし、冷えた手を温めながら答える。
「今日は、ずっと外を見てた」
にっこりと嬉しそうに言う。
いや、それはそんな笑顔で言うようなことじゃないんじゃないか…と心の中で突っ込みを入れつつ、庵はただそうかとうなづいた。
こんなときいい言葉を見つけられない自分に腹が立つ。
「なんかひさしぶりね」
「そうだな、もう10月になる」
9月に入ってからすぐ、ちづるの大学の講義が始まったのもあってお互いの都合が合わず、連絡も時々メールをするだけの日が続いていた。
それでも毎日、考えていた。今、なにをしているのだろうかと。
「俺に、会いたかったか…?」
自然に手がちづるの頬へ伸びていた。無意識にその手で頬から顎の線を撫でる。心なしか、とても熱い。
思いがけない問いにちづるは少しきょとんとしてそれから庵の大きな手をとり、自ら頬を摺り寄せた。
「うん」
<会いたかった>
その切ない想いがお互いに伝わる。
目を閉じ、愛おしげに庵に擦り寄るちづるを襲いたくなる衝動をなんとか堪え、しばらくして離された手をどうにか引っ込めた。
離れていた時間が長いほど好きで好きで仕方ない気持ちが膨らむのを感じていた。
いつからこんな感情を持つようになったのだったか。
付き合うことになった時はちづるをちょっとした罠にひっかけたようなものだった。
庵が自分の気持ちを言葉にしたことがないように、庵もちづるから好きだの愛しているだのの言葉は聞いたことが無い。
態度にはかなりわかりやすく出ているのでこれまでは特に気にしたことも無かったが、今は聞いてみたいと少しだけ思う。
悶々としてきた気分を紛らわせるため、出されたカスタードワッフルにかぶりつく。
「あ、そのカスタード私が作ったのよ。どう?おいしい?」
甘さ控えめのそれは確かに庵好みでとてもおいしかった。
「あぁ」
どう褒めればいいのかわからずとりあえず肯定だけする。
ちづるはまた嬉しそうににっこりすると立ち上がり、庵の隣の席へ移った。
「本当はね、私も今日八神のところへ行こうかと思ってたのよ」
そう言いながら肩に寄りかかる。
「まだ寝ているかもしれないと思ったから昼過ぎくらいに。…ねぇ、今日はずっと居られるの?」
「そのつもりだ」
午後にはいつものバンド練習があったがもう行く気にはなれない。いつも欠かさず出ているのだ。たまにさぼっても、大目に見てくれるだろう。
今日のちづるの雰囲気はなんだかいつもと違い艶っぽい。
口には出来ない期待が庵の中にはあった。
少し冷めた紅茶を飲みつつ、よからぬ想像を巡らせる。
「良かった。一緒に居るのが当たり前になってたからずっと寂しくて…」
話しながら少しづつ肩にかかる重みが増していく。
「神楽?」
「会えたら気が抜けちゃったみたい」
ここのところ暑い日と寒い日の気温差が激しく体調が悪かった。その上今朝、2時間もぼうっと外気に当たっていたのがいけなかったら しい。
「お前、まさか」
頬が赤かったのも熱いのも照れや感情の高ぶりのせいではない。いや、それもあったかもしれないが単純に…。
「熱があるのか!」
「ごめん、もう無理」
力が抜け椅子からずり落ちそうになるちづるをとっさに抱きかかえる。
その火照った体は明らかに風邪の熱さだ。
「看病、してくれる?」
熱で潤んだ瞳でてへっと笑ったその顔は、いろんな期待をしていた庵にとってまさに可愛さ余って憎さ百倍だった。




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